近代はいかに偶然を飼いならしたか 

pikarrr2010-12-10

キリスト教 偶然とは神の声


欧州における封建社会から近代化への流れにおいて、封建時代とはキリスト教権力が力を持った時代である。キリスト教が人々を洗脳したということではなく、キリスト教がいかに人々の生活を支えたかを考える必要があるだろう。

農業による自給自足において、キリスト教は共同体としての村をまとめる役割をする。また身分によるタテ社会を支える役割をする。これら社会秩序は生活を保障する。なにからか?自然から。自然という環境の気紛れ(偶然)から生活を守る。

このようなキリスト教による秩序がゆらいだのは、キリスト教に頼る必要が薄れたからだ。近代化の流れはルネサンスにはじまるといわれるが、彼ら芸術家を支えたのは商業で成功した新興の富裕層である。貨幣の浸透、商業の発達が社会の富を増やしたことで彼らが登場してくる。続く、宗教革命、名誉革命なども、富裕層を基盤にする。「豊かさ」の誕生は生活をキリスト教を基盤とする共同体に頼る必要がなくなる、だけでなくさらにキリスト教は自由な商業を妨げる。




もう一つの自然主義 


こうしてキリスト教にかわるのが「自然」である。自然な状態にもどろう。ありのままの、自然の、人間。ヒューマンネーチャ。たとえばニュートン力学が画期的であったのは、宇宙レベルの「自然」が一つの秩序をもち、またそれを人が理解し得たということである。この驚きがその後のキリスト教にかわる精神性の支柱になる。その一番が啓蒙主義である。この秩序ある自然の一部として人間の正しさを基礎づける。このような基礎付けは社会主義思想へ引き継がれていく。自然の一部として調和する理想の人間社会が目指される。

そして啓蒙主義が破綻するのは、結局基礎付けによって「偶然」を排除したことによる。その自然主義はあまりに理想的過ぎた。

市場経済の浸透は、より大きな現実的なもう一つの自然主義の潮流を生む。富が流動することでマクロな秩序が表れる。マクロ現象はニュートン力学とは別の現象として、熱力学では温度とは分子の運動量であり、温度差があると運動量が一定の平衡状態にもどろうとすることの発見。あるいは統計学の発達。そして広範囲な人口調査など社会現象分析。またケネーなどの初期経済分析など。すなわち無数の偶然が積み重なることで一つのマクロ秩序が表れるという自然のもつマクロな自己調整能力が発見される。それがもう一つの自然主義、もう一つの啓蒙主義として人間社会へも展開される。




アダムスミス 偶然こそが社会秩序を生み出す


アダムスミスが画期的なところは、この偶然によるマクロな自己調整能力を積極的に評価したことだ。アダムスミスにとって強制されることなく人が偶然に身をさらすことができることこそが「自由」である。

偶然は自然の脅威であり、キリスト教において、偶然を神の啓示として回収し緩和した。啓蒙主義において自然は形而上学的に語られ偶然は排除された。そしてアダムスミスによって、逆に偶然は社会秩序を生み出す原理として取り入れて自然主義まで高められた、といえる。

ただ啓蒙主義者であるアダムスミスはこのような偶然によるマクロな自己調整能力を単に市場機能として考えたわけではなく、社会的な道徳秩序を生み出す機能としても評価する。

その後、アダムスミスによって開かれた偶然を楽観的に秩序機能と見る経済的自由主義は、道徳的な調整は排除されて経済的な面が強調されて、功利主義的な利己的な個人の偶然が秩序を生み出すというマクロ秩序が強調され、「科学としての経済学」への習練されていくことになる。




マルクス 商品は偶然を魔力に変える


しかしいかにして、人類史の脅威であった偶然が、アダムスミスの発展の原理にまで飼いならすことができたのか。マルクスは資本主義を商品分析に見出す。商品の価値は商品そのものにあるわけではなく、交換の過程によって生まれる。他の商品と交換するときにその商品の価値は決まる。この交換の比率を決める瞬間に「偶然」が介入する。それを「命がけの飛躍」と呼ぶ。

たとえば米を持っていて、味噌と交換する場合に、この異なる価値のものをどのような比率で交換するか。そこに偶然が潜む。しかし普通は一度貨幣と交換する。米を売って貨幣を得て、貨幣で味噌を買う。マルクスは偶然の危険な世界において、貨幣は優位に働くことで、商品の王様となる。

貨幣をもっていればいつでも容易に必要な商品と交換できる。だから他の商品を持っている者は貨幣を持っている者を媚びることになる。「お客様は神様です」ということだ。また貨幣は貯蔵も容易である。腐ることもなく、置き場を確保することもない。また貨幣は資本として貨幣が貨幣を生み出す力をもつ。すなわち貨幣はあればあるほどいくらでも欲しくなり、そして多ければ多いほど資本主義においては優位になる。

マルクスの分析は、アダムスミスの偶然の働きを補完するもの、そしてアダムスミスの限界として読むことができる。偶然が生み出す貨幣の物神性(フェティシズム)は人びとを経済活動へ向かわせ、社会の富を増大させる。このために人が偶然に身をさらすことができる「自由」が重要である。

それとともに貨幣の物神性(フェティシズム)は、アダムスミスの楽観主義のように、社会の道徳機能まで調整するよりも、人びとは商品交換をするためではなく、ただ金を増やすために金を増やすという、貨幣中毒に入ることになる可能性がある。簡単にいえば、資本主義は偶然というギャンブルを組み込まれたのだ。ギャンブルは人びとの意欲をかき立てるが、また自制を超える強烈な魔力がある。




ケインズ 偶然を舐めるなよ


再度言えば、封建社会から近代化、すなわち資本主義社会への移行を考えると、偶然=自然災害、飢饉などはキリスト教による地域的な共同体の協力関係を秩序によって守られていた。しかし貨幣の流通量が増えて富が増えることで、富が偶然を回避する方法となり、徐々にキリスト教的な秩序は拘束的、閉鎖的に感じるようになる。

ここでいう富の本質は貨幣である。貨幣の終わりない蓄積によって、自然の偶然への対処が容易になる。生活を商品の防御によって守り、また必要なときには貨幣を商品に変えることで、偶然=自然災害、飢饉は回避される。そして富を増やすためには、キリスト教共同体の古い慣習から離れて、自由に交換過程を繰り返す必要がある。

これによって、偶然は決して飼いならされたわけではないことは、最近のリーマンショックなどを見てもわかる。ケインズは飼いならされた偶然=均衡理論とはべつに予測不可能な偶然=「不確実性」を重視した。それ故に不確実性への防御として自由を抑制する計画経済を推奨したのだ。*1




マクロ秩序という自然主義信仰


近代化とは、自然という偶然世界にはマクロレベルで自律的に秩序を維持する機能がある、という自然主義信仰を元にしている。たとえばサイコロ実験など物理現象ではマクロ秩序は見られる。しかしそれを人間に適用できるか。

現代に大きな影響を与える近代の大きな転回を上げると、二つのマクロ秩序の自然主義が上げられるだろう。ダーウィン進化論の自然淘汰と、アダムスミス経済論の神の手。しかしそこには、変化ではなく進化(進歩)、すなわち良くなると考える思想がある。

たしかに人間社会にも、マクロ秩序が働いていることは疑えないだろうが、どの程度働くかは分からない。さらに能動的に働くように社会は作り替えられる。

このように考えると自由至上主義の問題は、自由という偶然のマクロ秩序の限界にある。

1.秩序をもたない偶然がある。恐慌など。
2.マクロ秩序を重視してミクロレベル(個人)の問題は放置される。
3.根本的にこのマクロ秩序は市場経済を前提に成り立っている。豊かさが幸福であるのは本当か。

ケインズは保蔵や貨幣を蓄積する衝動の非合理で病理的な性格にしばしば立ち戻った。…理想社会では、これらの病理に対する手当は、精神病の専門家に委ねられる。このような専門家とはフロイトや彼の弟子たちのことであり、彼らのうちの何人かはメイナードの親友であった。

・・・ケインズのビジョンが自ら古典派のそれと区別するのは、不確実性および貨幣と同様に、時間を考慮している点においてである。これら三つの要素はたがいに関連している。貨幣の蓄積は、将来について恐れ、不確実性について恐れと、死の不可逆性を否定することから生じる。貨幣を保有することは、将来の危機に対する最適な反応である。

「なぜなら、貨幣の重要性は本質的にはそれが現在と将来を結ぶ連鎖であることから生ずるからである。…貨幣はその重要な属性においては、何にもまして、現在と将来とを結ぶ巧妙な手段であって、われわれは貨幣に基づく以外には、期待の変化が現在の活動に及ぼす影響を論じ始めることすらできない。(ケインズ)」 P374ー375 


ケインズの闘い」 ジル・ドスタレール (ISBN:4894346451


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