なぜ革命はいまも可能なのか 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」

pikarrr2011-01-08

「革命とは暴力ではなく、文学である」


佐々木中「切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」(ISBN:4309245293)が好評である。ボクの近所の大型店でも、最初は哲学コーナーにあったが、最近店頭の話題本のコーナーでも置かれるようになった。前書「永遠と夜戦」は(立ち読み程度だが)ラカンフーコー解説書のようで、よく勉強している程度の印象だったが、本書はインタビュー形式ということもあり、読みやすく言いたいことがよくわかり面白い。

内容をボクなりにまとめてみると、「革命とは暴力ではなく、文学である」ということを近代史を通じて現代へと語っている。ここでも「文学」は、小説ということではなく、もっと広義だ。決して理解出来ない書物を読むこと、そして読みかえるという決死の覚悟。ラカンでいえば現実界へ近接する狂気に陥る危険をおかすこと、だろうか。

またデリダに近く、「他者性」という言葉が使われる。決して到達しない他者性に向き合う。しかしデリダ脱構築のような脱臼の運動ではない。仮にそれが否定神学と呼ばれようとも、そこから新たなものが生まれて、革命がおこると力強く語られる。

その根拠として、現に近代化という革命がそうであった。たとえば宗教革命(大革命)のルターは腐敗するカトリックに対して、徹底的に聖書をよみ、テクストを書くことで近代化を進めた。さらにそれに先立つ、十二世紀の中世解釈者革命では、教会によって数世紀眠っていた「ローマ法大全」が発見され、徹底的に読まれることで新たな教会法が生み出される。その時代の教会とは単に宗教ということではなく社会そのものの再構築を意味した。だからここに近代の根源がある。近代法、近代国家、主権、法人、科学へ続く実証主義、そして近代資本制、情報技術(データベース)も、ここに根源がある、という。

そして現代の終末論批判へ。現代は宗教、哲学、文学などの終わりが語られるが、読もうとしない者の閉じたいいわけだと。いまでも「文学」は生きている。フーコーのいう規律訓練(教育)、統治(労働)もまた一つの「文学」の形=藝術であると、だからそこから、読み直すことで何度でも革命は起こせると。リズムある文章によって、力強く語られる。

それ(中世解釈者革命)は近代と呼ばれる時代を絶対的に到来させた革命でした。国家、主権、法、政治ばかりではなく、ありとあらゆる面でわれわれの世界を「初期設定」した革命でしたね。それ以後に続く革命も、その枠組みのなかに丸ごと入ってしまうような、無比の革命だった。それは巨大な、あまりに巨大な業績を生み出した。しかしそればかりではなかった。それは情報革命と同義であり、その外部として暴力を、そしてそこから漏れるものとしてさらに主権あるいは国家という奇妙な残余を創り出し、藝術の革命の力は忘れられることになったのです。そのために、それを変革しようとする努力も鏡合わせのように、情報か暴力か主権の奪取に切り詰められてしまった。われわれは情報と暴力の海の中で長く長く溺れ続けることになったのです。

確認です。文学が終わった近代文学が終わった藝術が終わった、と言うばかりか、言うにこと欠いて世界は終わっただの歴史は終わっただの言って、何か言った気になっている可哀想な人は後は絶ちませんね。そしてまた、自分の生きている時代が特権的な始まりか終わりであり、自分の生きているあいだに歴史上決定的なことが起こってくれないと困る、という思考の病んだ形態がある。P173-174

繰り返します。中世解釈者革命は人間がなしたことです。われわれ人間が、それをやり直せない訳がない。それをもう一度変えることができない根拠はない。さあ、われわれには革命が不可能であると考える理由は、何一つなくなりました。なにも終わらない。何も。P170


「切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」 佐々木中 (ISBN:4309245293)




東浩紀界隈の動揺


特にこの本に対する反応でおもしろいのが東浩紀界隈のあわてぶりだ。本書が東をターゲットに書かれている卑近な本だとは思わないが、各所で東の言説への批判が読み取れるようで、東界隈へ大きな衝撃を与えているようだ。またそのことに本書の面白さが表れている。

そもそもポストモダン思想とは、モダンとポストモダンという世代論を基本構造としている。そこに境界を儲けて、自らの立ち位置を明確にして、メッセージ性を生み出している。東はポストモダン思想家という以上に、このような世代論構造をかなり戦術的につかって人気を獲得してきた。

その特徴なのがオタク分析の動物化であり、その切り口は10年単位で刻んでいる。いまの僕らの世代のオタクは、10年前にオタクより動物化している!という恐ろしい世代論である。(参照なぜ東浩紀はすごいのか。-pikarrrのブログhttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20081029#p1

佐々木の言説は、このような東の終末論的な戦術であり、さらには「それは否定神学だ」というによるテクスト批判などのデリケートさを、直撃する。そして東の戦術がとてもこざかしいものとしてあぶり出されてしまう。だから東界隈の論者たちの批判は当然、すべてを近代でかたる時代性のなさ、あるいは安易な文学復興の浪漫主義だと、集中するだろう。

佐々木中の切手本が3万部であることを知り深い衝撃を受けた。

その部数が意味しているのは、現実と向かいあうより、文学の絶対性を謡いあげて作家と対談してたほうがよほど本が売れるということだ。

こんな状況では、本当に思想や批評は死にます。思想や批評の棚に来るひと、イコール、文学や思想の絶対性を謡いあげてくれるロマンティストを待望している痛いひと、という状況そのものが障害になっている。現実と格闘しているひとを思想や批評の棚に呼び戻さねばならない。


Twitter 東浩紀 http://togetter.com/li/79807

たとえば、先ほどの引用箇所は(それと明言されてはいないものの)、明らかに東浩紀氏の『動物化するポストモダン』への批判である。しかし、中世とポストモダンを短絡させた上でまとめて否定するのは慎重さが欠けていると言わざるを得ない・・・

おそらく本書は、文壇には好意的に受け入れられるだろう。「文学の勝利」を高らかに謳い上げているのだから。そして、情報の世界に背を向けていいと言っているのだから。・・・作家や編集者、批評家は、何がほんとうに文学の未来に資するのか、いかにして文学をこの民主主義的社会に対応させていけばいいのか、最低限の歴史的素養を持って知性的に考えていただきたいと思う。


福嶋亮大 書評空間 http://booklog.kinokuniya.co.jp/fukushima/archives/2010/12/post.html




革命はリズムを変えること


ボクは本書を単に「文学の勝利」を謳い上げた本だとは思わない。重要であるのは、本書の「文学」の定義の広さである。聖書、法、技術書、詩だけではなく、フーコーのいう規律訓練のような身体、そしてダンス、歌までが含まれる。ボクが以前に指摘した「リズム」に近いのでないだろうか。その意味では、デリダ的であるよりも、後期ウィトゲンシュタイン的であると言いたい。

すなわち現代の「リズム」は、中世解釈者革命以降の近代化によって作られてきた。終末論が語られるように、もうそれは徹底されて閉塞感さえ生み出している。しかし「リズム」は変えられる。革命は可能である、ということだ。

しかし本書への批判もよくわかります。たとえばマックス・ウェーバーが資本主義の起源をプロテスタンティズムに見たように、さかのぼった中世解釈者革命へ近代化の起源を求めすぎている。ウェーバーマルクスの経済を下部構造とした唯物史観への批判だったように、現代の経済主義や情報主義への批判の面を持っている。

またボクも「歴史の終わり」ではなく今後も革命は起こるだろうと思うが、本書では具体性にかけ、叙情的であることは否めない。革命(リズムを変えること)において、一部の偉人や一時の事件はきっかけであって、現実の連続的な延長線からしか起こらないのではないだろうか。だからこの経済・情報グローバリズムの中で、「リズム」を変えることに、現状の経済や情報を無視することはできないだろう。

言語ゲームにはかならずリズムがともなう。「石板♪」「はいよ♪」というリズムをつかむことが「規則に従う」ことです。リズムが根源的であるのは、理解もまた行為、運動ということです。状況との関係、使い方(りズム)がないと、純粋な理解そのものはない。ということがウィトゲンシュタインのいっていることですね。

ここでリズムというメタファーでいいたいことは、規則性があるが言語のように理解することができず、体でおぼえるしかない、ということです。

言語論が人は言語として世界をみて言語として考える、というとき、そこには必ずリズムがあります。リズムは体がおぼえた習慣であり、そのようにキザンでしまう。そしてリズムは他者と共鳴して共同体内を伝達されていく。それが言語ゲームです。・・・

おそらく昔はみな地域的な独自のリズムをもっていたんでしょうね。それが近代化の中で標準化されていく。それはひとえに社会の効率の重視です。大量生産大量消費では画一化したリズムが重要になります。学校はリズムを標準的に同期させる装置です。これをフーコーは規律訓練権力と呼んだわけです。国の経済成長には教育による同期が重要です。・・・

リズムの取り合いがあるのでしょう。現代の基本のリズムは市場原理、効率化、合理化のリズムです。これに哲学や宗教のリズムはあいにくい。また効率化のリズムを維持するために環境も整備されています。建物、交通、通信、流通などはリズムに同期しやすいように均質的に配置されています。


言語ゲームというリズム pikarrrのブログ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090825#p1

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日本人よ、読み、再び革命を起こせ


柄谷行人日本近代文学の起源において、明治時代の小説家が西洋文学を読み、習った「言文一致」運動を、日本のネーション(国民)の起源としていた。明治時代、日本は懸命に西洋の「文学」を読み、読みかえた。佐々木が言う意味で明治時代にはひとつの「革命」があったと言えるのだろう。ただ柄谷はそれを資本=国家=ネーションのうちの、ネーション(国家)の起源に限定している。

その後、日本は西洋の近代化、特に産業技術の「リズム」を取り入れて資本主義化を進めて、そして成功させていまの豊かな日本がある。そんな日本が閉塞し、行き詰まり、グローバルに乗り出せないでいる。

たとえば最近の日本でのサンデルブームなどの政治哲学への人々の興味は一時的なブームだろうか。日本人も西洋近代史という大きな流れの中で、自らの立ち位置を再度確認する時期にきているように気がする。

消費に埋没した日本人よ、本を読め、そして新たなリズムを生み出せ=革命を起こせ、ということか。

私が明治二十年代の十年間の文学に焦点を当てた理由はそこにある。・・・私はさしあたって、近代文学の自明性を強いる基礎的条件を、「言文一致」の形成に求めた。言文一致は、そう名づけられているのとは違って、ある種の「文」の創出である。それは、同時に、文が内的な観念にとってたんに透明な手段でしかなくなるという意味において、エクリチュールの消去である。それは、内的な主体を創出すると同時に、客観的な対象を創出する。ここから、自己表現や写実といったものが生まれる。・・・

ところで、言文一致が、国家やさまざまな国家的イデオローグによってではなく、もっぱら小説家によってなされたということが重要である。ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」の中で、ネーションの形成において、言語の俗語化が不可欠であること、新聞と小説がそれを果たすことを一般的に指摘している。それは、日本にもあてはなる。明治維新から二〇年後に、憲法が発布され議会がはじめるなど政治的・経済的な制度において、「近代化」が進んでいたにもかかわらず、そこにネーションを形成する何かが欠けていた。それを果たしたのが小説家だといっても過言ではない。P273-275


定本柄谷行人集1 日本近代文学の起源 ISBN:4000264869


改訂(長文)はこちらへ
■なぜ革命はいまも可能なのか(改訂) 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20110109#p1

*1:参考 言語ゲームのグルーヴ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090906#p1

*2:参考 言語という人間のリズム http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090829#p1