なぜ革命はいまも可能なのか(改訂) 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」

pikarrr2011-01-09


1 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」概要 
 1)「革命とは暴力ではなく、文学である」
 2)「「テクスト」は「文書」であることを必要としない」
 3)データベース化できる世界からの革命
2 ポストモダンニストへの反論
 4)東浩紀界隈の動揺
 5)マルクスの亡霊に取り付かれている思想家たちよ、歴史が終わったなどと嘆くな
3 近代のリズム
 6)「文学」とは「リズム」である
 7)データベース化された近代環境の「重さ」
4 ニッポンの再−文学革命は可能か
 8)日本近代文学革命
 9)ニッポン人は新たな「革命」を生み出せるか




1 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」概要 


1)「革命とは暴力ではなく、文学である」


佐々木中「切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」(ISBN:4309245293)が好評である。ボクの近所の大型店でも、最初は哲学コーナーにあったが、最近店頭の話題本のコーナーでも置かれるようになった。前書「永遠と夜戦」は(立ち読み程度だが)ラカンフーコー解説書のようで、よく勉強している程度の印象だったが、本書はインタビュー形式で読みやすくわかりやすく面白い。

内容をボクなりにまとめてみると、「革命とは暴力ではなく、文学である」ということを近代史を通じて現代へと語っている。書物を読むとは決して理解出来ないもの、その書物を読み、読みかえるという決死の覚悟。ラカンでいえば現実界へ近接する狂気に陥る危険をおかすこと、だろうか。

また読むことに、デリダに近く「他者性」という言葉が使われる。決して到達しない他者性に向き合うこと。しかしデリダ脱構築のような脱臼の運動ではない。仮にそれが否定神学と呼ばれようとも、そこから新たなものが生まれて、「革命」がおこると力強く語られる。

その根拠として、現に近代化という革命がそうであった。たとえば宗教革命(大革命)のルターは腐敗するカトリックに対して、徹底的に聖書を読み、テクストを書くことで近代化を進めた。さらにそれに先立つ、十二世紀の中世解釈者革命では、数世紀眠っていた「ローマ法大全」が発見され、教会によって徹底的に読まれ、新たな教会法が生み出される。その時代の教会とは単に宗教ということではなく社会そのものの再構築を意味した。そしてここに近代の根源がある。近代法、近代国家、主権、法人、科学へ続く実証主義、そして近代資本制、情報技術(データベース)も、ここに根源がある、という。

そして現代の終末論批判へ。現代は宗教、哲学、文学などの終わりが語られるが、読もうとしない者の閉じたいいわけだと。いまでも「文学」は生きている。だから読み直すことで何度でも革命は起こせると。リズムある文章によって、力強く語られる。




2)「「テクスト」は「文書」であることを必要としない」


ここで、文学とは小説などという小さな意味ではない。小説というようなエンターテイメントの分野は、比較的新しい分類である。生産的な学術文と、エンターテイメントの小説は、まさに近代の経済中心=生産至上主義が生み出した分類だろう。「文学」とは、「文書であることも必要がない」もっと広義な「テクスト」である。

ルジャンドルは一見きわめて奇妙なことを言う人なんですね。つまり「テクスト」「文書」であることを必要としない、とね・・・・ルジャンドルにとって、こういうことすべてが「テクスト」なんです。詩も、歌も、ダンスも、楽器も、リズムも、蜜の味も。あるいはさりげない日常の挨拶とか、挙措とか、表情とか。こうしたものがすべて「法」を意味し、「法」を読むことであり、読み変えることであり、書き変えることであり、書くことでありうる。そう彼は考えるんです。それらは純然たる法であり、規範であり、政治であり、またその変革である。何の不思議もありません。何故なら、まさに彼らはそのことによって、自らを統治してきたのですから。事実として、彼らは統治に成功してきた。こうして見れば、「テクストは文書であることを必要としない」という意味がわかるでしょう。テクストは広い。それはもっと広いのです。自らの身体という神に、神の所作を表す舞いで書いていい。自らの舌という紙に、神の言葉が染みこんで密で書いてもいいのです。何に何を書いたらそれは「掟」なのか。それは膨大なヴァーションがあるのです。そうです、これをさらに「文学」と呼ぶことは可能ではありませんか。何に何を書いてもそれは文学なのだ。そしてそのことによって、われわれはこの人間の営みによって「われわれの狂気を生き延びる道」を見いだしてきたのです。いつだって、何があったってね。P154-156


「切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」 佐々木中 (ISBN:4309245293)




3)データベース化できる世界からの革命


現代の「テクスト」は、中世解釈者革命以降の近代化の「テクスト」である。そしていま終末論が語られるように閉塞感さえ生み出している。しかし「テクスト」は変えられる。革命はいつも可能である、ということだ。

中世解釈者革命によってもたらされた断絶は、ここに関わるものです。テクストが文書になる。テクストは情報の器になる。情報だけが法や統治、そして規範にかかわるものになる。もはや法は歌われず、法は踊らず、法は纏われなくなる。法は飲まれず、法は奏でられず、法は韻を踏まれなくなる。一世紀かけて、遂にわれわれのこの世界が到来したのです。われわれの世界。客観的で合理的で中立的で普遍的で、記号化できる、つまりデータ化される世界、データベース化できる世界。テクストは切り詰められることによって、決定的に効率化されます。そうです、われわれの情報と書類の世界、効率と生産性の世界はここに到来したのです。・・・

さて、ここからは私の思弁です。この時点から、法や規範や政治は、情報か暴力かという二者択一の袋小路に陥ることになった。とりあえず資本は、「情報」のほうに入ると言いましょう。すでに述べた通り、この革命においてしか可能でなかった「信用」「信託」「クレジット」、すなわちキリスト教においては「神を欲望すること」そのものである信仰を、閉じた市場経済という回路の内部に封鎖して回転させる方策においてこそ、資本制は到来するからです。無論、それに無理があるからこそ、資本主義はいつもさまざまな統治術を取り替えてきたし、いつも恐慌や危機に見舞われることにもなる。当然カール・マルクスの言うとおり、貨幣とは「近代のキリスト」であって、情報における過剰な−いやさすがに時間がありません・ここはまたの機会がなれば、じっくり論じてみたいと思います。P157-158


「切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」 佐々木中 (ISBN:4309245293)

だから革命を諦めることはない。勇気をもって読み、読み変え、書けばいい。

なぜて藝術とは、受胎の藝術なのです。「孕まれたもの」のための技藝である。このことをわからないふりをしていると、藝術がおわったとか文学がおわったとか、それらが危機にあるだとか、単なるなくもがなの娯楽でありお飾りに過ぎなかったとか、そうした益体のない駄弁、思考の自閉に屈せざるをえなくなる。何故こんなことが考えられるのか。こんなことを他愛もなく敬虔に「信じている」からこそ、藝術も文学も、そして法や政治すらも力を失っていくのです。

簡単ですよ。一歩前に−ルジャンドルの好む言い方を引用すれば、一歩「横に」−踏み出すだけでいい。勇気をもって目を開くだけでいいはずです。そこには勇気しか必要ではない。・・・中世解釈者革命は人間がなしたことです。われわれ人間が、それをやり直せない訳がない。それをもう一度変えることができない根拠はない。さあ、われわれには革命が不可能であると考える理由は何一つなくなりました。なにも終わらない。何も。P169-170


「切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」 佐々木中 (ISBN:4309245293)




2 ポストモダンニストへの反論


4)東浩紀界隈の動揺


特にこの本に対する反応でおもしろいのが東浩紀界隈のあわてぶりだ。本書が東をターゲットに書かれている卑近な本だとは思わないが、各所で東の言説への批判が読み取れるようで、東界隈へ大きな衝撃を与えているようだ。またそのことに本書の面白さが表れている。

そもそもポストモダン思想とは、モダンとポストモダンという世代論を基本構造としている。そこに境界を儲けて、自らの立ち位置を明確にして、メッセージ性を生み出している。東はポストモダン思想家という以上に、このような世代論構造をかなり戦術的につかって人気を獲得してきた。

その特徴なのがオタク分析の動物化であり、その切り口は10年単位で刻んでいる。いまの僕らの世代のオタクは、10年前にオタクより動物化している!という恐ろしい世代論である。(参照なぜ東浩紀はすごいのか。-pikarrrのブログ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20081029#p1

佐々木の言説は、このような東の終末論的な戦術であり、さらには「それは否定神学だ」というデリケートさを、直撃する。そして東の戦術がとてもこざかしいものとしてあぶり出されてしまう。だから東界隈の論者たちの批判は当然、すべてを近代で語る時代性のなさ、あるいは安易な文学復興の浪漫主義だと、集中するだろう。

佐々木中の切手本が3万部であることを知り深い衝撃を受けた。

その部数が意味しているのは、現実と向かいあうより、文学の絶対性を謡いあげて作家と対談してたほうがよほど本が売れるということだ。

こんな状況では、本当に思想や批評は死にます。思想や批評の棚に来るひと、イコール、文学や思想の絶対性を謡いあげてくれるロマンティストを待望している痛いひと、という状況そのものが障害になっている。現実と格闘しているひとを思想や批評の棚に呼び戻さねばならない。


Twitter 東浩紀 http://togetter.com/li/79807

たとえば、先ほどの引用箇所は(それと明言されてはいないものの)、明らかに東浩紀氏の『動物化するポストモダン』への批判である。しかし、中世とポストモダンを短絡させた上でまとめて否定するのは慎重さが欠けていると言わざるを得ない・・・

おそらく本書は、文壇には好意的に受け入れられるだろう。「文学の勝利」を高らかに謳い上げているのだから。そして、情報の世界に背を向けていいと言っているのだから。・・・作家や編集者、批評家は、何がほんとうに文学の未来に資するのか、いかにして文学をこの民主主義的社会に対応させていけばいいのか、最低限の歴史的素養を持って知性的に考えていただきたいと思う。


福嶋亮大 書評空間 http://booklog.kinokuniya.co.jp/fukushima/archives/2010/12/post.html




5)マルクスの亡霊に取り付かれている思想家たちよ、歴史が終わったなどと嘆くな


たとえば現代思想マルクス主義の影響下にあると言えるのでしょうね。20世紀初頭に登場したマルクス主義は、世界中に左派の嵐を巻き起こして、共産主義国家を生み出すほどに多大な影響を与えた。

60年代のポストモダン思想=(ポスト)構造主義は、そのような流れのカウンターだったと考えられます。彼らが大きな物語の凋落」というとき、マルクス主義の経済的ユートピア幻想の終焉であり、その原理主義にまで高められた言説を挫く運動だったと言えます。

しかしポストモダニストたちがマルクス主義の影響から逃れたか、といえばまったくの逆だった。結局のところ、彼らが考えたのはマルクス主義の現代バーションだった。その特徴が彼らの思想が、情報および経済を下部構造としてとらえる現代社会を分析するものだった。

ドゥールズの「コントロール社会」や、フーコーの生政治、そしてそれは見事にネグリなどの新しい左翼に取りいれられている。動物化、環境管理など、東浩紀はそれらを日本人用にアレンジした。

再度言えば、現代思想マルクス主義の情報、経済中心主義の影響下にある。佐々木中の射程は、この現代思想マルクス主義の情報、経済中心主義そのものへの反論にある。

彼が十二世紀解釈革命を近代の起源というとき、マックス・ウェーバー以上の、マルクス主義批判になっている。下部構想(経済)革命以前に、「文学」革命があった。下部構想(経済)革命は「文学」革命によって可能になったのだと。

だからマルクスの亡霊に取り付かれている思想家たちよ、情報、経済主義が当たり前と思い、閉塞し、歴史が終わったなどと嘆くな。十二世紀に文学革命が可能であったように、いつでも、革命は可能なのだ、ということだ。




3 近代のリズム


6)「文学」とは「リズム」である


ボクは本書を単に「文学の勝利」を謳い上げた本だとは思わない。本書の「文学」は、聖書、法、技術書、詩だけではなく、フーコーのいう規律訓練のような身体規律、そしてダンス、歌までが含まれる。これは、ボクが以前に指摘した「リズム」に近いのでないだろうか。その意味では、「文学を読む」とは、デリダ的であるよりも、後期ウィトゲンシュタイン的であると言いたい。

言語ゲームにはかならずリズムがともなう。「石板♪」「はいよ♪」というリズムをつかむことが「規則に従う」ことです。リズムが根源的であるのは、理解もまた行為、運動ということです。状況との関係、使い方(りズム)がないと、純粋な理解そのものはない。ということがウィトゲンシュタインのいっていることですね。

ここでリズムというメタファーでいいたいことは、規則性があるが言語のように理解することができず、体でおぼえるしかない、ということです。

言語論が人は言語として世界をみて言語として考える、というとき、そこには必ずリズムがあります。リズムは体がおぼえた習慣であり、そのようにキザンでしまう。そしてリズムは他者と共鳴して共同体内を伝達されていく。それが言語ゲームです。・・・

おそらく昔はみな地域的な独自のリズムをもっていたんでしょうね。それが近代化の中で標準化されていく。それはひとえに社会の効率の重視です。大量生産大量消費では画一化したリズムが重要になります。学校はリズムを標準的に同期させる装置です。これをフーコーは規律訓練権力と呼んだわけです。国の経済成長には教育による同期が重要です。・・・

リズムの取り合いがあるのでしょう。現代の基本のリズムは市場原理、効率化、合理化のリズムです。これに哲学や宗教のリズムはあいにくい。また効率化のリズムを維持するために環境も整備されています。建物、交通、通信、流通などはリズムに同期しやすいように均質的に配置されています。


言語ゲームというリズム pikarrrのブログ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090825#p1

*1
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7)経済というリズムの「重さ」


革命とは、文学を読むこと、書くこと。勇気をもって読め、書け。その可能性を信じて。

仮に言っていることに歴史的な正当性があるとしても、これはあまりに楽観主義だろう。ボクも今後も「革命」は起こり続けると思う。しかし本書への一番の反論は、「環境」への配慮が低すぎるために「軽い」と言うことだ。

本書の言う「文学」が広義の意味での社会的な「リズム」であるならなおさら、文学は環境と密接であるはずだ。「リズム」は環境に適した形でしかありえない。

そして近代化という経済・情報中心主義の「リズム」の強力さは、環境そのものを作り替える力にある。それこそが、「データベース化できる世界」の真の力である。データベース化されることで、テクストは効率と生産性を目指して切り貼されそして環境を作り上げる。

仮に近代の起源が十二世紀解釈革命であるとすれば、八百年間に渡り、「物質的な環境」は造り替えられてきた。この「重さ」は大変なことである。ボクたちが今居る部屋の床も、壁も、均等に並んだ街並みも。舗装された道路も、またネットワーク上に張り巡らされた交通網、それを元にした流通などなど。

ボクたちの生活を支える環境全てが造られ、そしてその環境とボクたちの生活の「リズム」は共鳴し続けている。このために、リズムを書き変えることは、労力としても、金銭的にも、そして生存を支える意味でも、「重い」のだ。

たとえば豊かな社会同士は戦争をしない、という話がある。高度に組み立てられた経済社会では、物理的な破壊の経済的な損害はあまりに「重い」。だから現代は暴力戦争に代わって、経済戦争が中心になった。このように考えると、近代において文学=リズムが、むしろ情報・経済であることが重要なのではないか。佐々木が否定する、現代のデータベース化された情報・経済社会こそが、革命により暴力を排除する。そしてネット社会がすでに新たな文学革命のはじまりと、なぜ言えないのだろうか。




4 ニッポンの再−文学革命は可能か


8)日本近代文学革命


柄谷行人日本近代文学の起源において、明治時代の小説家が西洋文学を読み、習った「言文一致」運動を、日本のネーション(国民)の起源と考えた。佐々木が言う意味で明治時代にはひとつの「革命」があったと言えるのだろう。

明治時代、日本は懸命に西洋の「文学」を読み、読みかえた。ただ柄谷はそれを資本=国家=ネーションのうちの、ネーション(国家)の起源に限定しているが。

それによって日本は西洋の近代化、特に産業技術の「リズム」を取り入れ資本主義化を進めて成功し、いまの豊かさがある。そんな日本がいま閉塞し、行き詰まり、グローバルに乗り出せないでいる。

私が明治二十年代の十年間の文学に焦点を当てた理由はそこにある。・・・私はさしあたって、近代文学の自明性を強いる基礎的条件を、「言文一致」の形成に求めた。言文一致は、そう名づけられているのとは違って、ある種の「文」の創出である。それは、同時に、文が内的な観念にとってたんに透明な手段でしかなくなるという意味において、エクリチュールの消去である。それは、内的な主体を創出すると同時に、客観的な対象を創出する。ここから、自己表現や写実といったものが生まれる。・・・

ところで、言文一致が、国家やさまざまな国家的イデオローグによってではなく、もっぱら小説家によってなされたということが重要である。ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」の中で、ネーションの形成において、言語の俗語化が不可欠であること、新聞と小説がそれを果たすことを一般的に指摘している。それは、日本にもあてはなる。明治維新から二〇年後に、憲法が発布され議会がはじめるなど政治的・経済的な制度において、「近代化」が進んでいたにもかかわらず、そこにネーションを形成する何かが欠けていた。それを果たしたのが小説家だといっても過言ではない。P273-275


定本柄谷行人集1 日本近代文学の起源 ISBN:4000264869




9)ニッポン人は新たな「革命」を生み出せるか


たとえば最近の日本でのサンデルブームなどの政治哲学への人々の興味は一時的なブームだろうか。日本人も西洋近代史という大きな流れの中で、自らの立ち位置を再度確認する時期にきているように気がする。消費に埋没した日本人よ、本を読め、そして新たなリズムを生み出せ=革命を起こせ、ということか。

本書を読んでいるとき、たまたま以下の記事を読み、その関連を考えてしまった。資本主義は経済成長を前提にしている。それが不可能になれば破綻してしまう。豊かな環境を維持することさえ困難になる可能性がある。

日本人は、世界に先がけ、経済成長に根ざしたいままでの「リズム」から新たに「文学」を読み、読み変える「革命」は可能なのだろうか。

経済が停滞しても幸せな国ニッポン 人生には成長より大事なものがある
2011年1月6日付英フィナンシャル・タイムズ紙 By David Pilling
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5200


日本は世界で最も成功した社会か?こう問いかけただけでも、冷笑を誘い、読者が朝食のテーブルでふき出すことになるだろう・・・日本の衰退を論証するのは簡単だ。名目国内総生産GDP)は大雑把に言って、1991年と同じ水準にある。これは、1度ではなく2度の失われた10年があったことを裏づけるように見える粛然たる事実だ。

JPモルガンによれば、世界のGDPに占める日本のシェアは、1994年時点で17.9%だった。昨年はこれが8.76%に半減した。ほぼ同じ期間に、世界の貿易に占める日本のシェアはGDPのシェア以上に落ち込み、4%まで低下した。・・・株式市場はいまだに1990年の4分の1程度の水準でのたうち回っており、デフレがアニマルスピリッツを奪っている・・・

日本に関する多くの悲嘆の根底には、2つの前提がある。1つ目は、成功した経済とは、外国企業が容易に金儲けできる経済のことだ、というもの。この基準からすると、日本は失敗で、戦後イラクは輝かしい勝利となる。2つ目は、国家経済の目的は他国を凌ぐことだ、というものだ。

これとは異なる見解に立ち、国家の仕事は自国民に仕えることだとすれば、最も狭義の経済認識からしても、状況はかなり違って見えてくる。日本の実質的なパフォーマンスはデフレと人口停滞によって覆い隠されてきた。だが、1人当たりの実質国民所得(実際に国民にとって大事な数字)を見ると、日本の状況はそれほど暗いものではなくなる。

アジア専門家のパトリック・スミス氏は、日本は後れを取った国というよりはモデル国だという意見に賛同する。「日本は近代化の必要性から急進的に西洋化しようとする衝動を乗り越えた。これは中国人がキャッチアップしなければならないことだ」とスミス氏。

日本は欧米以外のどんな先進国よりも、自国の文化と生活のリズムを守ってきたと言う。

もし国家の仕事が経済的な活力を示すことであるとすれば、日本は大失敗している。だが、もし国家の仕事が、国民の雇用と安全を守り、国民が経済的にある程度快適な暮らしを送り、長生きできるようにすることだとすれば、日本はそれほどひどくしくじってはいない。

*1:参考 言語ゲームのグルーヴ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090906#p1

*2:参考 言語という人間のリズム http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090829#p1