なぜ日本人は脱原発よりもコンビニエンスな生活を選ぶのか 東日本大震災

pikarrr2011-04-21

脱原発か、コンビニエンスな生活か


これだけのことがあって、いまひとつ脱原発の機運は盛り上がっていない。現実的に考えて、みなが原発は今後も必要不可欠と考えているようだ。

原発の必要性を考える場合に重要なことは、単に電力が足りる足りないということではなく、電力の質を考える必要がある。人々がある程度の自然環境のきまぐれに対する労力を惜しまないなら、太陽熱、水力などの自然エネルギーを増やして、長期的に原発が廃止していくことは可能だろう。

しかしいまのような「コンビニエンスな生活」を存続するためには、原子力、火力のような、安価で安定した電力をベースとする必要がある。問題は、日本人がこのコンビニエンスな生活から抜ける覚悟ができるか、ということだ。




コンビニエンスな国、日本


「コンビニエンスな生活」とは単に便利な生活ではない。そのポイントは「他者回避」にある。古来、人が生活するためには他者との協力関係が不可欠であった。そこには必然的に他者からの拘束や対立が生まれる。自由主義経済の登場は他者との協力関係を貨幣商品交換によって代替させることで他者との煩わしい関係を回避し、個人の自由を広げてきた。

コンビニエンスな生活とはこのような他者回避した貨幣商品交換を、金持ちのための高価なサービスではなく、システム化することで生活の広範囲にわたり、安価で誰にでも提供される環境が整備されている状態である。

代表的なものがマクドナルドだ。マクドナルドでは誰に対しても、そして世界中どこでも、マニュアルにそった同じ商品サービスが安価で行われる。いまやコンビニ、ファミレスなど様々な商品サービスがマクドナルド化されて、安価でマニュアル化されて提供される環境が整っている。

このように生活の隅々まで、コンビニエンス化が進むことで、人々は僅かなお金があれば、豊かで自由な生活を送ることができるようになっている。特に日本においてはその充実は世界的にも突出している。




デフレを歓迎するコンビニエンスな生活


日本が長い不景気にあると言われる。経済指標での健全(好景気)とは毎年経済が成長することだ。生産性が向上し供給量が増え、それを消費する需要量が増え、企業収益が増加して、雇用が安定し、賃金も上昇する状態だ。

しかしいまの日本は消費マインドが冷え込み、商品が売れず余り、企業収益が悪化し、賃金を上がらず、雇用が減るというデフレ状態にある。このために、エコポイントやエコカー減税、さらには地デジ化により消費を活発化させ、一定の効果があるようが、デフレ状態を脱して好景気に転じるまではいかないようだ。

高度成長期を経て、経済成長率が低下するのは先進国の特徴である。ある程度の豊かさに達した国で低成長化は一つの常態化と言えるだろう。これは成熟した経済では不況が当たり前ということではなく、経済指標的な不況に人々が順応することが起こっているのではないだろうか。それがコンビニエンスな生活である。

わずかに金でコンピニエンスな生活をおくれることは自由主義経済の一つの到達点である。低経済成長で、高い給料、高いポストを望めない環境で、今の楽しさを重視するために、デフレで商品が安いということは歓迎すべき状況である。

若者の「〜離れ」という現象も、コンビニエンスな生活になれ、他者回避、社会的責任回避な商品購入行動のシフトといえる。




コンビニエンスな生活と無縁社会的不安


今回の震災が人々に与えた不安の1つは、コンビニエンスな生活の脆弱さである。直接被災していなくても、震災のような問題が生じると、商品の流通システムが滞る。これは単に商品がない不便だけではなく、他者との協力関係を商品購入で代替していたい人々が頼れる他者が回りにいないことに気づき、孤立化し不安になることを意味した。

最近、話題の無縁社会という不安も同様な原理だろう。いまの他者回避したコンビニエンスな生活はいつまで継続可能なのか。コンビニエンスな世代が老後を迎えるのはこれからで、まだコンビニエンスな老後サービスは十分に発達していない。

また老後はどこまでコンビニエンス化可能なのか。またそれを受けるのにどれほどの蓄えが必要なのか。このような不安から人は目標ない貯蓄に走り、消費が抑制されていることも現代の不況の要因になっている。

そして死の問題に行き着く。「コンビニエンスな死」はありえるのか。コンビニエンス化とは生活環境のコンビニエンスであるとともに、自らも商品の合理的なシステムの中に埋め込まれることを意味する。若いうちは埋め込まれる反面、趣味などの余暇を楽しむことに主体性を見いだすことができるが、歳をとり弱ったとき、そして死んだときに、自らが合理的に処理されることを考えると、自らの生きた意味とは、尊厳とはなにかと考えて不安になる。それが無縁社会的不安の本質である。




コンビニエンスな生活という楽園にとどまりたい


今回の震災では、このようなコンビニエンスな生活が安価で安定した電力供給によって成立していること、またコンビニエンスな生活が脆い基盤の上に成り立っていることがが顕在化し、いまも人々を不安にしている。もしかすると、原発事故による放射能への不安よりも、大きいかもしれない。

このこともあり、脱原発の機運は盛り上がらず、原発を維持してコンビニエンスな生活にとどまりたいというのが本音だろう。今後、限られた電力供給の中で、どこまでコンビニエンスな生活という楽園が可能なのか。日本人の転機を向かえていることは確かである。

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