なぜ日本人の精神は「阿弥陀」によって覚醒したのか

pikarrr2011-08-13

自然に対する絶対的な無力感


哲学思想を学んでも回帰するボクの考えの元にあるのが、「自然に対する絶対的な無力感」である。これって日本人の精神性の原点ではないだろうか。日本的な自然主義はこの無力感、そして自然への恐れ、敬意から始まる。そして理論的な空論よりも実働的な成果を重視する。

ボクの日常哲学派の慣習主義は日常が成立することの深遠さを認める。ヒュームや、ウィトゲンシュタインの西洋思想的背景はおいておいても、日本の基底には、論理より、自然があり慣習を重視する文化がある。

一つには運命共同体のハイコンテストな島国では、考えを相対化して論理化する超越的思考は必要とされない。そんなこと考えるより実際に会えばシンクロしてわかりあえるわけだから。

このような日本の慣習主義が意識されたのは鎌倉仏教以降だろう。それまでの漠然とした慣習主義が表現方法を持った。そこには漠然とあったものが表現されてことと、表現されることで客観視されて加工可能なものになった意味がある。




土着な自然主義


日本人の精神起源のとキーになるのが、土着な自然主義、鎌倉仏教、武士の習いのようだ。

土着な自然主義は仏教伝来前の万葉集にも見られる日本人のアミニズム的特性として語られる。しかしその後も回帰し続けるのは日本人の生活環境と密着しているからだろう。島国であり、四季があり、定期的に自然災害がある。現実的な問題として生活が自然と深く関わってきた。




武士の習い


大和朝廷以降、中央集権がひかれ、土地も人も管理されたが、平安末期になると、鉄器の普及などの技術も進み、地方も力をつけていく。特に開拓を促進するために一定期間の私有地も認められて富を蓄えていく。中央集権体制も緩み、地方では自衛が必要になる。武士に血統があるとしても、武士の台頭を支えたのは農民からの転身である。

このような背景から特に東日本において農民が武装した武士が台頭していく。すなわち武士の台頭は技術進歩、富の増加を背景とした民主化であった。

武士が台頭して、自衛による治安が基本になると、それまでの中央集権により暴力の独占は崩れる。法は効力を失い、また交易も略奪の危険にさらされる。重要になるのは強い信頼関係である。武士が親分子分、兄弟の契りなど卑近な主従関係を重視するのはこのためである。そしてこの忠義が武士の習いの基本となる。やがて組織が大きくなることで封建的な秩序が生まれも、基本には武士の習いがある。




鎌倉仏教


仏教は聖徳太子以降、中国の最新の思想として伝来しつづける。だから当初は政治への影響が大きかった。知的エリートが学び、政治運営などへ影響を与える。鎌倉時代には庶民へと浸透する。鎌倉仏教といわれる浄土宗、禅宗日蓮宗など庶民をターゲットにした仏教である。

これらはいままでの政治思想と結び付いた、外来的で特権的なものではなく、民衆の覚醒を重視する。念仏をとなえればよいなど実践的であるだけではなく、日本人により開発された面が強く、土着の自然主義を取り入れ、また武士の習いと結びつき、さらにはひとつの精神性へと高めるまでに発展していく。




「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」


親鸞の思想はぶっちゃけなわけだ。仏教っておもしろい?みんな欲深いじゃん。僧侶がそれいってもいいの?阿弥陀はもっと大きいから大丈夫。善人悪人なんって超越しているから。そして嫁をもち肉も食ってしまう。これは仏教史にはタブーで革命的だ。

親鸞はこれを革命として行ったわけではない。法然に帰依しその同門弟子の失態によって、僻地であった東北の田舎に流された。その時代、野武士が徘徊する未開地であった東北で百姓暮しをしながら、生活に根ざした信仰を広めていく。

核心的な親鸞の言葉。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」「善人ですら極楽浄土に行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へいくのは当然ではないか。」この強烈な逆説において、親鸞は日本の精神性を覚醒された。その真意はなにか。

一つは、世間の善悪を超越したところに阿弥陀様はいるという強烈な俯瞰思考。悪人をも愛するふところの広さ。誰もがみな多かれ少なかれ悪人であるという。それをすべて許容する。

もう一つは、隠れ性善説になっていることだろう。罪を憎んで人を憎まずではないが、悪事をはたらいてもその心の奥では、人はみな善人である。すなわちみな、自らが悪事をはたらいていることを知っているし、そこについての後悔を持っている。そのことを阿弥陀様はわかっていること。だからいつでも心を開いて素直になりなさい。




日本人の慣習が隠されている


日本人はこのような許容を仏教の当然のものと考えるが、それはすでに親鸞の教えが深く浸透しているからである。実際の仏教はもっとも厳格なものだ。救われるためには厳しい鍛錬が必要になる。

親鸞の考えは、通常の仏教にすればあまりに緩い。念仏を唱えるだけで救われる?それも悪人でも救われる?この相対主義の先にあるのが、では悪事をした方が得ではないか。という考えである。

しかし日本人はこれを受け入れた。なぜなら決して発散しないように日本人の慣習が前提として隠されているからだ。なんでもあり、悪いことをOKと言われて、なんでもしますか?日本人は逆にやらないでしょ。なぜなら日本人にはすでに運命共同体的な慣習があるからだ。正確には日本人には慣習があることを自覚させた。これは個としての精神的な覚醒の第一歩である。


海外では慣習は多様だ。世界宗教にはこのような慣習を超越することに意義がある。そのためにはどれかの慣習との迎合する緩さは危険である。独自の厳しさと、信じろ!という徹底的にベタな信仰が求められる。




阿弥陀」という名指しによる覚醒


歎異抄親鸞の弟子の唯円親鸞の言葉、思想を記述したと言われる。その第十六条に阿弥陀が自然である」と言っている。この自然とは環境の自然であるとともに、日本人の生活の中の慣習である。

なにをしようと(日本人なら)体にしみこんな自然からのがれられない。悪をすれば自らの中の自然が辛くなる。この矯正効果こそを「阿弥陀」と名指しした。それによって民衆ははじめて自分の中にある価値を意識し、そして阿弥陀という超越性を通して強烈に価値を共有している共同体意識を感じたのではないだろうか。自然環境と人々と繋がっている自分を。

武士の習いにおいては、この個と集団との関係は、我を自覚し集団のために我を無くすという高い精神性へと高められていくことになる。

すべて、あらゆることにつけて、極楽浄土へ往生するためには、利口ぶる心を持たずに、ただ阿弥陀さまのご恩が深いことを常にほれぼれと思い出す必要があります。そうすれば、自然と念仏が申されてくるのであります。これが自然ということであります。自分のはからいでないものを自然といいます。これはすなわち他力ということでもあります。そうであるのに、自然ということが別にあるように、もの知り顔に、偉そうにいう人があるということを聞きましたが、何とも情けないことであります。


歎異抄  第十六条」 全訳注 梅原猛 (ISBN:4061594443)

参考


「日本倫理思想史(一)」 和辻哲郎 ISBN:4003811054
「日本倫理思想史(二)」 和辻哲郎 ISBN:4003811062
「日本的霊性」 鈴木大拙 ISBN:4003332318
「武士の成長と院政 日本の歴史07」 下向井龍彦 ISBN:4062919079
梅原猛の授業仏教」 梅原猛 ISBN:4022615192
歎異抄梅原猛 ISBN:4061594443

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