映画「コクリコ坂から」の感想
言葉が真実を語ると信じられていた時代
宮崎駿脚本、宮崎吾朗監督作品映画「コクリコ坂から」見てきた。宮崎作品にしては動員数もいま一つということで期待せずに見に言ったが、なかなかおもしろかった。久しぶりに宮崎作品で感動した。
コクリコ坂の舞台は昭和30年代の横浜当たりの高校。話しの中心は高校の部室が集まる古い建物の解体問題。学校側が建物を潰して新しいものを立てようとするのに対して、学生が愛着ある建物を残そうとする。また学生が規律正しく、まじめて、熱い時代。集会を開き討議し、みなで自主的に建物を清掃し、改修する。そして学校側が解体を一方的に決めたのに対して、理事長へ直訴するために出向いていく。
宮崎駿脚本で自伝的な面もあるというように、純粋で熱い、古き良き学生のノスタルジーが描かれている。前半はそれが冗長で鼻につくところもある。なぜ設定がこの時代なのか。駿の自伝的作品というのも聞いていた。自伝的作品は往々にして自慰的で他人には退屈になりやすい。
実写でも昭和30年代の日本映画を見たことがあるが、その頃の青年たちのベタなまじめさは、正直、いまからみると気持ちが悪い。真っ直ぐに「青春」とか「正義」とか「愛」とかを語り合う。戦争の規律訓練が十分行われ、また戦後開放された言葉が真実を語ると信じられていた時代。
愛すべき純粋で熱い人々の物語
後半、恋物語と絡んでくると、その純粋で熱い空気ががぜん重要になってくる。というか、駿ワールドへなってくる。考えてみれば、駿の世界はいつも愛すべき純粋で熱い人々の物語だった。主人公だけではなく、まわりの登場人物はみな。その全体の空気が物語の展開を熱いものにしてきた。逆に言えば、駿ワールドの原点はここで描かれるような時代にあるのだとも言える。
最後は引き込まれて泣きそうになった。回りも結構みんな泣いてた。ベタに泣かせようと作っているわけではない。今考えてもなにに感動したがよくわからないが、自然とうるうるきた。
このような自伝的で、情緒的な作品を自らではなく他人が描くことはなかなかむずかしいと思う。60年代の学校は、戦後まもなく、まだ規律が重視されている、いまでは想像しにくい独特な世界であり、体験した人でなければわからないだろう。吾郎はどのように考えながらこの異次元を描いたのだろうか。それはなかなかの苦労だったと思う。駿はやはりおもしろいな。吾朗もなかなかやるジャン。