なぜ禅の悟りと精神分析の治療は違うのか 「禅学入門」鈴木大拙

「無意識は言語のように構造化されている」

Q 「仏陀とは誰か、また何か」
A 「たわごとを言うな」

この答えは悟りを開いた者の答えだという。精神を病んでいる人の返答と考えてなにがおかしいだろうか。

いま鈴木大拙「禅学入門」ISBN:4061596683)を読んでいる。鈴木大拙「悟り」は言語論的だ。精神分析ラカン「無意識は言語のように構造化されている」と言ったが、鈴木の悟りはこの無意識(言語)を破るようなイメージだ。禅問答であえて非論理的会話が行われるのはそのためだ。

鈴木の言う「悟り」とは、言語、主客二元論にとらわれず、新しく世界に対峙すること、そして創造的活動を行うことだ。それによって人の持つ不安が解消される。

たとえば人が死への恐怖を持っている。しかし死とは生/死という二元論からでた言葉でしかない。「死」という言葉を破れば二元論は成立せず、死から開放され、不安は解放される。

このように悟り、「死」への不安を越えられた・・・というわけにはいかない。原理的にはこのようなことだとしても、実際の悟りとは頭で考えて語るものではなく、日常的な体験、経験によって得られるものらしい。おそらくラカンがいうように、言語は無意識という深いレベルで働くために、それを破るためには、深いところで解体しないといけないんだろう。




欲望は言語体系の不完全性から生まれる



言語とは心に属する。そして身体と切り離された心の空回りは悩みや欲望にいたる。たとえば身体が弱ると、心だけが空回りして言葉を無駄に操り、悩みに陥る。身体と一体化することで心の暴走を抑える。そのために身体的な修行が必要になる。禅の修行は質素な生活、身体的な労働、座禅などが行われるが、その目的は身体と心の一体化らしい。

この当たりも、ラカンと通じるところがある。ラカンでは欲望は言語体系の不完全性から生まれると考える。いわば、もともとバグのある言語をインストールされた人間は、バグから欲望や悩みが生まれてしまう、ということ。禅的には悟ることでバグに捕らわれないようにする、というようなことだろう。




「健全」とはなにか


ただラカンの場合は、無意識(象徴界)を破ると現実界があって、それに近づくことで精神的な病になるということだ。このためにラカンは治療として「健全」に欲望することを進める。バグがあっても無意識(言語)によって人の精神は一応安定しているからだろう。

しかし鈴木の場合は、言語(無意識)を破ることで「悟り」が開けると考える。この大きな違いは身体にポイントがあるようだ。ラカンは基本が心身二元論であり、精神分析ゆえに心の分析だけで、そこに身体がない。だから心が破れると支えるものがなくなって、精神的な病に直結してしまうと考える。

禅ではまさに、心を破っても精神的な病にならないように、ささえるために修行=身体の慣習の矯正を先行するのだろう。まるで精神的な病のような非論理的な問答が禅の本質ではなく、そこには修行が先行している。

ただわからないのは、「健全な」慣習の矯正であるとすれば、その健全さはどこから来るのだろうか。人は本質的に健全であるという自然主義的な性善説のようなものが元になっているのか。ボクは、禅が特に日本で広まった背景には日本人が持つ素朴な自然主義的な共同体信仰がベースにあるのではないかと、疑っているのだが。




現代人にも禅は有効か


精神分析は、近代化、グローバル化する西洋で多発した心の病に対処するためにフロイトによって発明された。現代の消費社会ではさらに価値観は混沌としている。たとえばマスメディアの基本的な手法は、コンテクスト(文脈)操作である。同じ商品を様々なコンテクストに置き換えることで新たな消費欲求を生み出す。これによっていまの資本主義経済は成立している。現代の日本はその先端にある。現代人は日本で禅が広まった鎌倉時代などの素朴な人々にくらべてすでに達観して(悟って)いるといえる。

禅の悟りも常識的なコンテクストを解体することで、あらたな境地をえる言語論的なコンテクスト操作の面がある。その意味ではマスメディアの方が進んでしまっている。はたしてそのような達観しシニカルな現代人にもまだ禅は有効なのだろうか。



禅とははたして仏教徒の色々の教訓にみるような、高尚深遠な知的、形而上学的は哲学大系であるのであろうか。・・・禅はまったく論理や分析の上に築かれた哲学ではないのである。いずれかと言えば、禅は論理の正反対である。すなわち論理は思考の二元論的様式を具えたものである。が、禅は心の全部であるから、禅のうちには知的要素があると言えるが、心とは多数の機能に分割されたり、また解析の終わった後に何物も余さぬような合成物ではないのである。P22


禅は、吾々は余りに言葉と論理の奴隷であると思っている。吾々はこうして縛られている間は、吾々は悲惨である無数の哀しみを味わわねばならない。しかしもし吾々が何物か知る価値あるもの、すなわち精神的幸福に導くものを見いだそうと希うならば、吾々はただ断然すべての条件から離脱することに努めなければならない。・・・ここには論理もなく、哲学化もなく、人為的手段に合致せしめんがために事実を枉屈することもなければ、知的解剖に委するために人の性質を殺すこともないのである。・・・この意義において禅は明らかに実際的である。抽象や弁証法の巧妙さは禅の関知するところではない。・・・禅は神や霊魂を説かない。また無限や死後の生命を語らない。P63-64


論理学には努力と労苦の跡がある。論理学には自覚の意識がある。人生の事実に対する論理学の応用であるところの倫理学もまたその通りである。倫理的な人は賞賛すべき奉仕の行いをするが、しかし彼は常にそれを意識しているのだ。さらにはまた将来の報酬を期待することもあろう。彼は訓練されており、その行為は客観的にも社会的にも善である。しかし純ではない。禅は不純を嫌忌する。人生は芸術である。その完全の芸術のように、それは自己没却でなければならない。そこには一点努力の跡、あるいは労苦の感情があってはならぬのである。禅は鳥が空を飛び、魚が水に游ぐように生活されなければならない。努力の跡が現わうるるや否や、人は直ちに自由の存在を失う。彼はその本然の生活を営んでいないのである。P68-69


大概の宗教的隠者の苦労することは心身から一致して働かないことである。身体は心から遮断せられているし、心は身体から遮断され、別々に身体があり、心があるという風に思っており、この遮断は単なる観念上のことで仮設上のことであることを忘れている。禅修行の目的はこの最も根源的な区分を認めないことにある。身心いずれかの一方の考えを強調し易い習慣を避けるように常に気をつけることである。真の悟りは空の状態ではないが、区分的な考えのまったくなくなったところに達することにある。静かな瞑想によってしばしば生ずる心の沈滞は悟りを熟させるには何の役も立たない。修禅に進まんと欲する人々は、究極において本来の心的活動の流動性をまったくとどめてしまわないようにいつも当然注意すべきである。


これを道徳上より見れば、体力の消費となる労働は、一方に思想の健全さを試すものである。特に禅においてそれの真なることが窺われる。禅にありては、実際生活に何らの反映を持たぬような抽象的概念は畢竟無価値とされているのである。信念は経験を通じて獲得されるべきもので、抽象によってではない。道徳的肯定は必ず知的判断の上位に置かれるべきものである。すなわち真理は人の生活経験の上に立脚しなければならぬものである。P175-176


「禅学入門」 鈴木大拙 ISBN:4061596683