日常哲学派とは日常の些細なことを哲学的に考えること

pikarrr2011-09-18

日常−哲学とは、


1 日常こそがもっとも深遠である。「神秘とは世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(ウィトゲンシュタイン)」
2 特に日本では哲学は非日常的なものと考えられている。さらにいえば、思春期の現実逃避の手段にもなっている。このような現状への皮肉が込められている
3 ありふれた日常を哲学的に考えるとは、現代の日本人的スノビズムである。
4 震災後、ほとんどの言葉が力を失ったのに対して、日常哲学は地に足がついた有用な言葉を語り続け、まさにその骨太さが証明された。




日常哲学の極意について


壊れたケータイ

ボクは以前ケータイをあやまって落としてしまった。そのときにケータイの画面側とキーボード側とつなぐヒンジが緩んでしまった。そのために閉じた状態でケータイを握り、ひねるように指を動かすと、画面側とキーボード側がずれてカチカチを音が鳴る。

気が付くと、何げないときケータイを握り、カチカチと慣らしていた。その感じがなにか気持ちいいのだ。

結局、そのケータイは数年使っていたので、1、2週間後に新機種に切り替えて破棄した。しかしいまだに音が鳴るはずのない新しいケータイを握り、以前カチカチを慣らしたように指を動かしていることがある。


慣習と1回性

ここに日常哲学の極意がある。一般に日常を生み出すのは慣習である。慣習は往々にして、長い行為の反復によって培われると考えがちだ。しかしそうだろうか。ある瞬間の気持ちよさや衝撃的な出来事が、その後長く続く慣習となることがある。

ここで重要なことは歴史の1回性である。現代は科学思想の時代である。科学思想は合理的な法則を求めようとする。そして1回性を嫌う。これは近代以降に深く根付いた思考形式である。ボクたちはもはやあまりに当たり前すぎて世界がこのような特殊な思考形式によってつくられていることに気が付かない。

日常哲学の基本は慣習の根深さを考えるところにある。しかしその慣習を決して退屈な、当然の、合理的な結果と考えてはいけない。

そこにある1回性を語ること。そして1回性は科学的には絶対に語れない。だから現代において、1回性を語ることはオカルトでありDQNに近い。それでも1回性を語ること。それが日常哲学の倫理である。




日常哲学のススメ  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20101022#p1




日常哲学派のための神本リスト (神本とは何度も何度も立ち返り読み返すべき本)


pikarrr1 http://www.amazon.co.jp/pikarrr%EF%BC%91/lm/R2X4WJ000LK6C1/ref=cm_lm_byauthor_title_full
pikarrr2 http://www.amazon.co.jp/pikarrr2/lm/R2G4D4SOAK40DI/ref=cm_lm_byauthor_title_full
pikarrr3 http://www.amazon.co.jp/pikarrr3/lm/R1DOIAUR80CRXC/ref=cm_lm_byauthor_title_full
pikarrr4 http://www.amazon.co.jp/lm/RUGVDV1ENH9ER/ref=cm_lm_pthnk_view?ie=UTF8&lm_bb=

*1

*1:画像元 拾いもの