なぜ日本のすばらしさはインフラレベルの高さにあるのか 日本人の「気遣い」と西洋人のセルフサービス

pikarrr2012-07-02

日本のインフラの高さと日本人の「気遣い」


日本のすばらしさは、インフラレベルの高さにあると思う。インフラといえば、交通機関、電気ガス水道なのライフラインなどが上げられる。分刻みで正確に運行される交通機関、安定供給されるライフラインなどは、日本人には当然でも、世界有数のレベルにある。そこには維持管理の高い水準がある。

しかしボクがインフラというときにはもっと広義のものである。安全安心な治安の良さ、清潔さ、そして人びとの親切さ。

これらは、日本が豊かであること以上に、日本人的な特性から来ている。それは、「気遣い」である。日本人は気遣いを心情的なもの以上に慣習的なレベルで当然のように行う。日本人は個人レベルで生活の回りで気遣いによる改善を行うことが習慣づけられている。これがインフラレベルを支えている




職の体系とインフラの向上


このような日本人の「気遣い」の特性は、日本の歴史的な環境から来ているのではないだろうか。たとえば日本も階級社会であった。江戸時代なら士農工商。このような職業による縦の階級関係とともに、職業による横の関係がある。

たとえば農民は武士よりも下の階級であったが、武士という政治・治安という職と、農民という農作物を作る職とは、それぞれが社会の役割を担っている。

西洋が縦の関係が強く、農民が従属的であるのに対して、日本ではむしろ横の関係が強い。このために農民は村を自己管理して、自ら生産性を向上する努力を行う。逆に武士もまた、それぞれ行政的な職業であった。それは、将軍であろうと変わらなかった。

このような職(役割)の横の関係において、それぞれが役割を全うすることが当然であり、このような社会の関係性の中で「気遣い」の慣習が生まれる。

誰もがみな社会の役割を担う職人であって、社会のために奉仕しあうことが慣習化されている。このような精神性が、経済性を超えて、日本全体のインフラレベルを引き上げている。できることのちょっとした改善を行うことが慣習であり、楽しみであり、生き甲斐である。




ガラパゴス化と気遣い


最近、日本人を揶揄する言葉にガラパゴス化がある。日本の中に閉じて、独自に改善を進めることで、世界に通用しない、独自の進化した製品が生まれる。このガラパゴスの運動の原動力もまた日本人がもつ「気遣い」の慣習を元にしているだろう。

しかしガラパゴスという揶揄を日本人以外の外国人が言っていることを来たことがないのだが、どちらかと言えば、自虐的な言葉である。

いまの日本の技術力、そして製品のクオリティの高さは世界が認めるところである。日本人は自己評価が低すぎるというのは、最近外人からよく聞く言葉である。ガラパゴスという言葉のもとになったのはガラケーだが、それに対するアイフォンも、その部品の多くに日本製品が使われていることが有名なことである。




高いインフラ維持よりコストダウン


ボクがむしろ気にしているのが、最近このような「気遣い」によって支えられてきた、高いインフラが無駄のように言われることが多いように思うことだ。高いインフラの維持の裏には、既得権益がある。もっとレベルを下げて、参入障壁を下げて、コストを下げるべきだというような、品質、安全よりもコストを重視する傾向が強くなっている。

高いインフラレベルの優位性は日常で当たり前すぎて、なかなか実感できないものだ。しかし蓄積してきた高いインフラの効果は、日本社会においてとても大きな働きをしているのではないだろうか。

それは単に快適で安全な社会を生み出している。だからインフラレベルが下がって快適さが損なわれても、なんとかできる、ということではなく、最近の貧困化そのものの問題に直結する。現実に日本人の賃金は下がっている中でも、それなりに快適な生活が送れるのは、いままでの快適なインフラの蓄積があるからではないか。このようなインフラがやせ細ってしまったときに、本当の低賃金の悲惨さが現れるのでないだろうか。




西洋でのサービスとコストの相関関係


最近、「むだな「気遣い」をするよりも、コストを安くしろ」、という流れがある。しかしこれは単にコストが安ければよいという価格の問題だけではない。そこにあるあらたな潮流は、ネットから来ている。それは「セフルサービス」である。「無駄な気遣いからコストが上がるなら、安くしてくれ。足りない部分はセルフサービスでカバーするから」

セルフサービスの思想は西洋的である。先の歴史の話にもどれば、西洋の階級は日本のような職による横の繋がりは弱く、縦を重視する。だから「気遣い」という思想はなく、サービスとは価格である。たとえば日本では「サービスします」とは「ただ」を意味する。サービスは客ならば受けるのは当然のものである。特に人が行う「気遣い」のレベルでは。

日本人が西洋を旅したときに感じる違和感が、サービスがコストに直結する感覚である。飛行機のファーストクラスからエコノミーへのあからさまなサービスの格差、さらにはチップを手渡しすることも、恵んでいるようで、気持ちが悪い。

西洋ではサービスとは価格である。コストを下げるために、サービスを下げることは当たり前である。だから西洋ではセフルサービスが大きな選択肢であって、一つの文化である。




ネットのセフルサービス・ワールド


このような文化が日本に流れ込んできたのがネットである。ネットは、西洋を元にするために、セフルサービスの文化である、とともに、またさらにネットのセフルサービスは先鋭化している。

情報が未整理のままで積み上げられて、また次々に未完成のまま、成長していくというネットの特性から、自己解決能力が高い人ほど、尊敬されるほど、セルフサービスの文化が高められている。ネット上のもっとも自己解決能力が高い人びとがハッカーであり、プログラムを操ることで、ネットそのものを支配することができる。

たとえばガラケーと、アイフォンの違いもここにある。ガラケーという大手のメーカーが技術を抱え込んで改善する。これは単に利益や安全のためだけではなく、ユーザーへの「気遣い」である。技術を管理し、ユーザーへ丁寧にサービスを与えることが日本メーカーの慣習となっている。

それに対して、アイフォンは「セフルサービス」を基本として開放的である。プラットフォームを抑えて、あとは「セフルサービス」でやってくれ。そこで問題が起こっても、自己責任である。また情報難民が生まれようが仕方がない。しかし日本メーカーは情報難民など知らないとは言えないだろう。それは良くも悪くも「気遣い」という日本人の倫理である。




原発というインフラから受けた大きな恩恵


このような「セフルサービス」、自己責任、自由な文化は確かに魅力的であり、このネットにのった潮流は止められないだろう。しかしすべてにおいてそれで良いのかは疑問である。

日本のすばらしさを支える、交通機関、電気ガス水道のライフライン、治安の良さ、清潔さ、そして人びとの「気遣い」の倫理までもが、コストと比例したサービス、そして「セフルサービス」化しても良いのだろうか。日本人は、これらインフラのすばらしさを失ってから気づくのだろうか。

脱原発が活発化している。たしかにいまさら新たな原発を作ることは難しいし、そして今ある原発も老朽化していく。もはや長期的な脱原発の流れは止められないだろう。

しかしここにも、「むだな「気遣い」をするよりも、コストを安くしろ」という議論、すなわち気遣い=既得権益を守る=利権という一方的な議論がある。

いままで日本の世界有数の安定的な電力インフラを原発がそして電力会社のサービスが支えてきたのは確かである。確実にそれによって、日本は物質的にも、そして生活環境においても
豊かになった。それをなかったことにして、コストに還元するのはいかがなものか。そしてこのようなインフラ議論を単にコスト問題に落とし込んで、インフラがやせ細って、苦労するのは弱者ではないだろうか。

「むだな「気遣い」をするよりも、コストを安くしろ」という、ライフサービス思想が、インフラをやせ細らせて、数年後にはいろいろな弊害が出そうな気がする。いまは単にいままで貯め込んだ豊かなインフラを食いつぶしているだけではないのか。コスト重視、自己責任による品質の低下が、日本を凋落させる。

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