なぜキリスト教がローマ時代に普及したのか?

pikarrr2012-08-09

キリスト教というパーソナルな契約の斬新さ


現代で「宗教」といえば、神とのパーソナルな契約を結ぶことだ。日本人に信仰がないと言われるのは、日本人が神を信じないわけでも祈らないわけでもなく、パーソナルな契約を結ばないからだしかしパーソナルな契約を結ばない信仰、すなわち自然宗教であり、集団的慣習の根ざした信仰の方が古いだろう。

パーソナルな契約を結べる神とは、強い神である。一神教、明文化、自然を超越するなど自立した強い神である。その強さゆえに人は神を「選択」できる。弱い神は人の慣習と強く結び付き、人は選択することなく、育った慣習の中で気がつけば信仰している。日本人の初詣やお寺参拝なとは慣習である。

キリスト教がローマ時代に普及した理由の一つがパーソナルな契約である。さまざまな土着の宗教に対して、キリスト教はパーソナルな契約することが斬新だった。それは、個人の自立という最先端の感覚だった。土地に、階級に埋め込まれていた人々が、都市化とともに、個人に目覚めていく。キリスト教は新たに倫理にマッチした。




パーソナルな目覚めと宗教的禁欲


倫理には段階がある。パーソナルの尊重はまず強い宗教によるところが大きい。キリスト教以前にも、インド宗教に見られる。インドでは土着宗教を脱して、個人的な悟りがブームとなった。その影響を受けている可能性があるが、ギリシアではピタゴラス教団が個人的な修練を目指した。この流れはプラトンを経てヘレニズムのヒューマニズムへつながる。ストア派などローマの禁欲主義へ。

キリスト教もこの流れから離れてはいないだろう。まだユダヤ教の一部、ユダヤキリスト教からパウロにより自立し始めたときの支持者はまさにヘレニズムの影響を受けた人々であった。

面白いことにパーソナルな目覚めは、近代のような自由平等の主張としてではなく、禁欲活動としておこる。埋め込まれていた慣習から離脱し、自己コントロールを目指して生きる。先鋭的にはストア派などがあるが、自己管理的禁欲の実践を普及させたのはキリスト教であった。

インドで信仰がパーソナルになれた理由の一つが温暖な気候ではないだろうか。簡単にいえば働かず修行をしてもなんとか生きていける。ギリシア・ローマにおけるパーソナルな信仰の普及は経済発展により、人々が土地に縛られなくなった。ここにパーソナルの目覚めが起こる。倫理は社会の豊かさと深く関係するだろう。近代の個人の自由平等という倫理はまだまだ社会が豊かになるまでまたなければならない。
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