なぜさしこは「かわいい」と着飾ざらないのか

pikarrr2012-09-27

萌えと処女性の消費


さしこの個別激減はやはりスキャンダルの影響なのだろうか。確かに消費と処女性には深い関係がある。たとえば人が上から二冊目の本を買うのも処女性への愛好だし、日本で音楽や映画などが発売週にもとも売れるのもしかりだ。

日本人は特に処女性を好む。いまやジャパニズムの象徴となった萌え文化は幼児という処女性を中心に構造化されている。日本人が処女そのものを特別視するようになったのは明治以降のキリスト教文化の影響だが、処女性を愛好する傾向はずっと古いのではないだろうか。

日本人の処女性への愛好は、ベタにいえば「新しもの好き」である。裏を返せば日常の閉塞性からの回避である。日本は擬似的な単一民族国家で、ハイコンテクストな社会、同期しやすい、簡単にいえば「言わずもがな」的な社会であるために、閉塞しやすい。日本人が新しいものにすぐ飛び付く、外国文化にかぶれやすいのは閉塞からの脱出のためだろう。日本人の外国かぶれ、明治以前は中国文化だが日本国の誕生まで遡れるだろう。

さらに高度成長期を経て成熟期に達した日本では閉塞感が広がっている。特に既得権益として年功序列に居座る大人に対する若者の閉塞感を背景にして、九十年代以降に急激に萌え文化が広がった。

このような大きな流れの中に処女性を提供する装置として、萌え文化、そしてアイドル文化が発達した。とくにAKBはいままで漠然としていたアイドルの処女性を商品の付加価値として明確に契約化した。契約で保証しますので安心して購入くださいと。




かわいいと再生産される処女性


しかし日常の閉塞を打破する「新らしもの」を性的な処女性に求めるのは、男性中心主義的である。かつての男尊女卑文化では男子は主人、女性は道具だった。だから女性の処女性とは使われる前にもっとも価値があり、使われるほどにすり減って価値が減っていく。それに対して、主人である男性の場合は、多くの女性を経験するほどに価値が上がっていく。

だから女性では日常の閉塞性を打破するための「新らしもの」は、別のところに求められる。おしゃれ、ファッションである。自らを変身させて新たな自分=に生まれ変わる、処女性を身につける。現代日本ではこれを「かわいい」という。

特に最近の日本女性に好まれるファッションの特徴が「かわいい」という幼児性をキーワードとするのは、まさにオタクの「萌え」と同じく、日本独特な文化である。萌えが男尊女卑的に女性の処女性を消費するのに対して、かわいいは自らの処女性を再生し続ける。どちらにしても現代日本の消費のキーワードは幼児性、処女性である。

そもそも消費による処女性の消耗と再生は、なにもアブノーマルなことではない。産業革命による産業社会以降には、古典経済学のセイの法則が有名なように、大量生産することで消費が作られた。しかし生産性が向上し消費財が十分行き渡ったあとも、消費は伸びつづけているのは、商品の利便性を越えた傾向である。

消費は一つのマジックである。金さえあればなんの努力もなく一瞬で手に入る。そして飽きれば捨てればいい。もはや便利だから消費する、安いものが売れるのではなく、消費そのものが力であり、そして快楽である。そして日本では消費が社会の閉塞性を打破する方法として、処女性(幼児性)を媒介して、より効率的に作動しているといえる。




かわいいとコスプレは真逆


ならば商品としてのあたらしもの=処女性を失ったさしこが、ファンの購買意欲を高めるには萌え以外の方法が必要になる。かといって、さしこにとって「かわいい」は苦手分野である。さしこには「かわいい」アレルギーがある。

さしこが「かわいい」を着飾ることに消極的であるのは、さしこ自身がオタクであることに関係するだろう。萌え文化を生きるさしこは、基本的に自らが男(主人)なのである。「かわいい」と着飾るのは消費される側がすることであり、無意識に「違う」と拒絶している。これはオタク女子全般の傾向だろう。彼女たちは根が男なのだ。

より詳細にいえばもう少し複雑である。たとえばオタク女子はコスプレをして、自らを萌えの対象として着飾ることを好む。しかしこれは一般女子の「かわいい」と似ているようで真逆の反応である。「かわいい」は自らの処女性をマジに再生産することを目指す。これに対してコスプレとはあくまでネタ(遊び)である。自らをかわいくするのではなく、日常の自分とは異なる人を演じる。自らがかわいくなれないから演じる。コスプレイヤーの中身はあくまでオタク(男)であり続けて、俯瞰的に自らを消費するのである。「かわいい」とコスプレとは限りなく近いのだが、真逆の現象なのだ。




アイドルコスプレイヤーさしこ


さしこがグループで歌うときや、自らのソロを歌うよりも、板野やまゆゆなどのソロをうたう方が生き生きして輝くのは偶然ではない。さしこの中のオタク(主人)は、自らがマジにかわいく見せることで人々に消費されるよりも、ネタ(コスプレ)としてアイドルを演じることで自らを自らで消費することが喜びなのだ。

さしこがアイドルであるということはどこまでのネタなのである。その根にあるのはアイドルオタク(主人)である。指原プライドにしろ、指原プロデュースにしろ、ネタにおいてさしこの魅力は発揮される。

そもそもにおいて、さしこの魅力は処女性にあったのだろうか。さしこヲタにとってはそうかもしれない。しかしスキャンダル前の総選挙4位まで上り詰めた人気は前田やまゆゆや柏木のように処女性に支えられていたのだろうか。たしかにあの瞬間はそうだったかもしれない。

しかしそれは本来のものではない。根はオタク(主人)であり、アイドル(商品)をいじり、また自らがアイドルにコスプレしていじり(いじられる)ことを楽しむ姿にこそ、生き生きとした魅力があった。だからバラエティでいじられ(自らをいじり)、HKTをいじるいまの状況はまさにさしこ的王道といえる。たとえば個別が激減したとしても。




アイドルのもっとも「やらかい部分」


その意味で「いいとも」ではまだ空気で、オタク(主人)が発揮できていないのは残念だ。1年たったが秋も更新されるらしいがどうだろうか。HKTの子供たちをいじるさしこはまさにアイドルオタクの本領発揮だろう。秋からさしこをメインMCにしたHKTの深夜番組が始まる。「さしくせ」」以来に期待だ。

「with アンリレ」の件はどうだろうか。ソロなのにユニットの端っこで、あまり写らずに歌うというアイドルコント。これが最初からユニットとしてのものであればよかったのだろうが、もともとがソロの活動であったことだ。ファンの間でも賛否両論であるのは、AKBの中でのソロというものとても特別なものだからだろう。AKBでは主要メンバーでも露出できるのはわずかにならざるをえない。その中でソロはファンとアイドルがじっくり楽しめる数少ない場である。アイドルのもっとも「やらかい部分」を感じられる機会である。それは処女性ではなく愛である。

指原莉乃、ソロなのにセンターじゃない!? http://www.jiji.com/jc/c?g=ent2_ent2&k=g120515

HKT48の指原莉乃が、ソロ2枚目のシングル意気地なしマスカレードで、後輩にセンターを奪われた。AKB48の川栄李奈加藤玲奈入山杏奈による新ユニット「アンリレ」を従え、アーティスト名義指原莉乃 with アンリレ」としてCDリリースする予定だが、ミュージックビデオでは、指原を差し置いて川栄がセンターを務めているバージョンも。「最初は全然納得できなかったです。だって私のソロシングルなんですよ?!」という指原だが、撮影現場では、少人数のフォーメーションに不慣れな3人をリードするなど、よき先輩ぶりを発揮していた。10月17日発売。(2012/09/25)