日本人の心性の起源としての「太平記読み」

pikarrr2012-11-18

太平記読み」の思想


太平記読み」の時代 近世政治思想史の構図 若尾政希 (ISBN:4582767753)が、平凡社ライブラリーの文庫本として出版された。これで始めて太平記読み」のことを知った。太平記はご存じのように鎌倉幕府の崩壊、南北朝時代を経て、室町幕府の誕生の物語だが、太平記読みはその後、太平記を独自に講釈したものだ。その起源はよく分かっていないが、公的な太平記に対して、下層の講釈師などによって伝えられたと言われる。

著者はさらに太平記読みと区別して、太平記読み」を定義している。太平記読みが江戸初期の元禄時代に出版が広く普及し、書物を通して、さらに書物からの庶民への講釈師を通して、より広く太平記読みが普及したこと、この現象がその後の日本人の政治、道徳思想の手本となったという。

平家家物語が仏教、因果応報なら、太平記宋学の影響から儒教の君臣という名分が重視される。しかしそれとともに、太平記読み」には儒教に還元されない日本独特な忠臣文化が語られる。たとえば君主の上になる国家(公)があり、民のみならず君主であっても国家のためである。よって君主は民のために働くことが公儀であり、仁政をめざすべき。また仏教、儒教などの学問にとらわれるのではなく、忠義のため、仁政のために、すなわち国のための実際的な知として活用して意味があるなど。

平家物語→琵琶法師(語り伝承)
太平記太平記読み(語り伝承)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 断絶
      太平記読み」 江戸元禄出版の普及 →日本人の心性の形成




儒教の還元されない日本人の思想


同様に太平記読みに書かれた本、太平記<よみ>の可能性 (講談社学術文庫) 兵藤裕己 (ISBN:4061597264)によると、太平記が足利氏により管理され、足利家の正当性を示しものとして位置付けられたのに対して、太平記読みは下層のもの達により語り継がれ、楠正成など、非正当なもの達の正当性(名分)を越えた忠義の英雄伝として語られるという。

江戸時代には家康以降、儒教が重視された制度が進められるが、実際には日本の忠臣は儒教に還元されず、太平記読み」の思想に近いという。代表的なものが忠臣蔵である。赤穂浪士はその時代に物議を呼んだ。幕府の法では禁止されて、儒教学者からは批判されたが、庶民を含めて多くのものが賛同した。大石内蔵助太平記の最大の英雄、楠正成のメタファーとして語られた。

また殉死など武士の精神性は幕府の儒教的な官僚システムでは禁止されるが、武士の精神性として求められ続けた。太平記読み」の思想は、体制に還元されない日本人的な忠義を想起し続け、さらに幕末の尊王攘夷思想から明治維新へとつながっていく。




ナショナリズムと武士道


現代に続く日本人の心性がどのように作られたかという問いがある。明らかに明治維新まではつながる。近代化の「想像の共同体」現象は日本でも起こった。共通文語体=国語が作られ、義務教育として教えられた。一つの国民国家としてのナショナリズムが作られた。

日本の場合は、その思想の中心は教育勅語に代表的されるように江戸時代に武士層を中心に学ばれた儒教的な精神だった。だから江戸時代にたどることができる。しかしここからは曖昧だ。江戸時代に武士層の心性が日本人全体の心性といえるか。

またその武士の心性が多分にフィクションであることがある。たとえば新渡戸稲造「武士道」は明治に外国に紹介するために英語で書かれた。近代化では西洋から明確な精神性が求められた。そのようなものがない日本人は野蛮人だとされ、国際社会の一員と認められない。そもそも言語化された精神性という考えが西洋的な文化なわけだが、西洋中心主義の近代ではそんないいわけは通用しない。

そもそも日本の慣習伝授文化には、明確に言語化されてこれだ!というようなものはない。おのずと理想化されたフィクションが作られる。明治政府は旧下級武士層で運営されていたわけだから、江戸時代の武士の精神が取り入れられた。近代国家を作るために作られた日本人の精神性の一つが「武士道」ということだ。




太平記読み」と日本人の心性


そんな中で、太平記読み」は面白い。江戸初期に上級武士層の秘伝とされ、武士の政治の教本とされる。そして元禄の出版の普及後に書物として広まり、また講壇として庶民のエンターテイメントとなり広まる。そして日本人の日常の道徳に大きな影響を与える。儒教に還元できない日本人の心性として。

明治以降のナショナリズムも、儒教以上に太平記読み」の思想に近いという。すなわち現代の日本人にもつながる心性の原型として、太平記読み」が重要であるというわけだ。




日本人の慣習文化と太平記読み」


そもそも日本人は慣習伝授文化が中心であり、大河のごとく流れる慣習伝授の流れの中で、太平記読み」が希有に言語としてすくい取られただけのものではないか。太平記読みの印刷物の普及が心性を広めたというのは、グーテンベルグの印刷を想定した西洋中心的な考えではないか。

もともと秘伝でありその成立過程は不明である。どちらにしろ、戦国時代に下級層が講談芸能としてつくられたと言われるなおさら天才による思想書というよりも、日本人に受けるようにもともとあった心性がすくいとられて出来上がってきたのではないだろうか。

いまの日本人のつながる日本的なものは応仁の乱以降に生まれたといわれるが、その他中世の人々の生活や心性が研究されているが、多くが太平記読み」に通じるものがある。どちらにしろ、いまの日本人にもつながる日本独自の思想へつながっている太平記読み」が日本の慣習中心文化にとって貴重な言語資料であることにかわりない。



さて、この「秘伝」書が、先に述べたように太平記評判秘伝理尽鈔」と書名に「秘伝」の名を冠しながらも、一七世紀半ばに出版された。今田洋三氏が指摘するように、一七世紀は日本史上初めて出版業が成立した時代である。まさに成立したばかりの出版業者の手にかかり、「理尽鈔」はその享受層を一挙に拡大していった。・・・地域・身分を越えて「理尽鈔」が広く流布し、もてはやされたという。・・・直接講釈師に依らずともこれらの書物を通して「理尽鈔」講釈に接することができるようになったのである。

このように。一七世紀半ばを転機として、「理尽鈔」講釈は大きな変化を余儀なくさせられた。一七世紀前半には、読み聞かせという口誦による知(知識・知恵)、いわばオーラルなメディア(情報媒体)による知であった「理尽鈔」講釈が、一七世紀後半には書物による知、出版メディアによる知へと大きく変質させられた。その享受層も、前者では口誦の場を共有した限られた人々、よって特権的な階層の人々(具体的には上層武士)を対象としたのに対し、後者は、地域・身分を越えた広い層に受容されていった。・・・

実は、太平記読みという呼称は、史料的にいえば、現時点では貞享三年(一六八六)が初出で、民衆相手の芸能者を読んだものであり、「理尽鈔」の講釈・講釈師を太平記読みと呼んだ史料は見つかっていない。しかしながら、従来、たとえば国史大辞典」太平記読」を定義して「江戸時代前期に、主として太平記評判秘伝理尽鈔」を読み聞かせることによって生計を立てた芸能者、またそのような芸能。講談の源流となった。源平盛衰記「難波太平記などの軍書読の代表的なもの」と解説していることからわかるように、「理尽鈔」講釈と民衆相手の太平記読みとを区別せずに一括して太平記読みと見なしてきた。だが「理尽鈔」講釈と太平記読みとは、先に見たように出版メディアによる知を介してつながっているもの、やはりひとまず別のものと見るべきだろう。そこで本書では、民衆相手の太平記読みと区別して、「理尽鈔」講釈及びその講釈師を太平記読み」と括弧をつけて呼ぶことにしたい。P42-45


太平記読み」の時代 近世政治思想史の構図 若尾政希 (ISBN:4582767753

太平記読み」は、(1)従関係が恩の反対給付に依存した双務関係であると認識しているといえよう。
次に(2)領主と民との関係は、・・・撫民を領主の責務とする。もし民を苦しめる悪政を行えば、・・・民は国法を恐れず君を恨み、国が乱れるという。鞭によって従属させるような一方的関係ではなく、民を慈しみ民に「君の恩」を感じ入らせる。相互的なものとして、領主−民関係を捉えている。
(3)「国家」は領主の忠の対象なのである。太平記読み」によれば、領主による過酷な収奪は、・・・民を疲弊させ税収を激減させる。結局・・・民の反抗をまねき、・・・警告している。・・・万民の養育こそが領主の責務であり、「国」に対する領主の忠なのである。
また(4)家臣の忠についても、・・・主君個人と並べて「国」が挙げられる。しかも、両者のうち、・・・主君への忠より「国」への忠が優先するという。すなわち・・・主君を補佐と、ときに諫言をし、撫民を実現することを国への忠と見なすのである。
さらに、(5)「国」への忠は為政者層に限定されない。すべての国民は「国の土地・食をはみ」、その恩恵を受けているのだから、領主・家臣だけではなく下万民に至るまで、国家に忠を尽くす必要ががある。太平記読み」は、国への忠を・・・万民の責務と見なす。
(6)領主に忠を尽くすことを万民の責務とする。国恩の場合と同じく、職分を尽くすべきだという。このような太平記読み」は、領主と「国」とを分離し、忠とはまず「国」に対する道徳であり、領主から庶民までがそれぞれの職分を果たすべきだと見なしているのである。P122-125