日本人の右寄りの系譜を知ること 和辻哲郎「日本倫理思想史」

pikarrr2012-12-01

社会が右傾化していると言われている。ボクはもともと右寄りだけど。いままで日本人は自らをあまりに評価してこなかった。それは戦争の記憶があるから抑圧してきた。また右傾化して戦争に向かわないようにという右思想嫌悪。

でも結局、国は仲間というのが日本人の感覚で左寄りの下地がない。日本は保守大国で右寄りで有り続けた。言葉として強く表れたときには右嫌悪なんだけど、ようするに頭では右嫌悪、体は右寄り。いま、徐々に戦争の記憶も薄れて、世界的な中国、韓国という隣国の台頭があって、日本も右寄りになっている。日本人の誇りを確認したがっている




いま和辻哲郎「日本倫理思想史」ISBN:4003811054)を読んでるけど、和辻の主張は日本人は太古から天皇信仰を持ってきた。しかし明治維新における天皇の扱い方は間違っている。将軍と天皇を入れ替えることで天皇を権力のトップとするのは間違っていると戦前から出張してきた。天皇とは権威であり、象徴であり、日本人の団結を支えてきた存在だとして、本書では古代からの日本人の精神性の系譜を示している。だから戦後の天皇のあり方には納得している。

たとえば、室町時代に社会が豊かになり始めて、民衆が教養にめざめたとき、そこにあったのは平安までの古代文化だった。古代文化は天皇信仰である。1神教のように強く天皇を信仰しているのではなく、天皇そしてそれに仕える忠臣を一つの理想像として、日本人のあり方を示している。仏教、儒教を取り入れながらの日本人らしさ、清らかで慈愛をもち正義を行うことを理想とする。

聖徳太子の十七条憲法。「一にいう。和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。」。この時代に、そして日本初の憲法でいきなり「和」を持って行くるってなんなのかと。仏教、儒教を一生懸命勉強して書かれたのだとは思うが、いきなり「和」をチョイスするのは仏教とも儒教とも違う、日本人の感性で、もうその時代にいまに通じる日本人ができあがっていたというすごさ。日本人は同じ倫理は世界中誰でも持っていると考えがちだが特殊だろう。

明治にはその日本人の理想像が利用された。みなが天皇の理想的な忠臣であれと悲惨な戦争へ突入した。だから大切なのは和辻のような歴史認識なんだと思う。天皇を象徴とする日本人の精神性そのものが悪いわけではないし、それを排除することはできない。世界と対峙するときに再び日本人の誇りを取り戻す。そんな時期に来ているように思う。

2011年4月に「日本倫理思想史」1巻が文庫本化されて、今年4巻まで出そろいお手軽に読めるようなった。日本人にはぜひ1巻目だけでも読んでほしい。日本人とはいかにすばらしいか。



一にいう。「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。」和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。

六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。

十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。

十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

十七条憲法
http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm