なぜ日本人の倫理は慈悲なのか

これは日本人とはなにか、という一つの物語です。


慈悲と純粋贈与


慈悲の一番の特徴はなんでしょうか。他者に無償で奉仕するということでしょう。このような無償の奉仕は、多くの文化で見られるものです。それは互いに奉仕しあうという贈与交換が人類に共通の経済的は行為であることから、自らへの返礼を求めないという特殊なケースとしてある。それは多くにおいて、日常の贈与交換に対して神的な行為とされ、純粋贈与と呼ばれます。

このような純粋贈与の起源を考えると、自然からの恵み、あるいは自然による破壊という天災などが考えられます。自然を大いなる他者と考えた場合に、偶然に与えられた大きな恵みを他者に無償で分け与える、また天災にあった他者を無償で助ける。自然は神的なものであり同時に、それを介在するものは神的な者となり、純粋贈与を行う神的な者となります。これは純粋贈与の始まりの一つの物語です。

さらには、より能動的な例として、世界宗教では、積極的に無償の奉仕が語られます。キリスト教の慈愛、そして仏教の慈悲など、人類愛としての無償の奉仕が語られます。このように他者への無償の奉仕は、どの文化にも見られる交換形態の一つと言えます。さらにはそれぞれに特徴があります。では日本人の慈悲はいかなる特徴があるか。その基本は仏教から来ています。




日本人の慈悲の特徴


たとえばキリスト教の慈愛は、キリスト教教義の重要ものではありますが、一番は神を信じることであり、慈愛も神からの命令の一つです。それに対して仏教は慈悲の宗教と言われるように、慈悲は教義の中心概念です。慈悲を通して、自らを悟りを開くことが目指されます。ここで大きな違いが生まれます。キリスト教の慈愛は弱者救済の面が強い。しかし仏教では生きていることが苦であり、いわばみな弱者であり、弱者救済に限らず、すべての行為において、慈悲が求められます。たとえば挨拶をすることや、気遣いなと日常レベルも慈悲行です。

このように全面化するなかで、無償の奉仕は高度に掘り下げられます。その一つが三輪清浄という考え方です。慈悲は与えることだけでなく、受け取る方のこと考えることも重要です。贈与の大きな特徴は、与えた者に優越感を与え、与えられた者に負債感を与え、そこに力関係が生まることがあります。与える方がどんなに無償であっても、受ける方には負債感が生まれます。三輪清浄においては受け取る方の負債感を与えないことも考慮することを求めます。

キリスト教の慈愛にここまでの繊細さはない。それは一つはそこに神が介在しているかもしれません。言ってしまえば、慈愛は神の命令であり、受け取る方も神からの贈り物です。

このような他者への配慮は特に日本人により特徴的な気がします。西洋人が積極的、直接的に弱者救済するのに対して、日本人にはその積極性がない。たとえば卑近な例では電車でお年寄りに席を譲る場合、受ける方、あるいは周りの目をのことを考えてしまう。受ける方のプライドを傷つけないか、すなわち負債を与えないか。やり過ぎの奉仕は相手に負債を与えて、恥をかかせることになる。あるいは周りから、かっこつけている、すなわち優越を得ようとしていると見られないか。だから日本人は直接的な無償の奉仕が苦手です。日本に独特な優先座席という制度も誘導されることで気兼ねなく奉仕することを役割をしていると言えるでしょう。




日本人の職分論


このような仏教の慈悲の特徴である、生活への全面化、あるいは直接的を避ける傾向から、一つの解として、日本では江戸時代に職分論が発展します。みなそれぞれ職を全うしよう。それが世の中への貢献となり、慈悲行であるという考え方です。

似た考え方にプロテスタントの天職論があります。職は神から与えられた天職であり、懸命に働くことが信仰である。ウェーバーが指摘したように、これが初期の西洋での資本主義発展の原動力になりました。面白いのは、日本でも江戸末期のプレ資本主義段階で職分論が広まったことです。現に働くことが豊かさに繋がる段階であったことが重要なのでしょう。

ここでも日本人の職分論と、プロテスタントの天職とは質的な違いがあります。日本人の場合は、慈悲論から構造化されて、全体の中の役割を担うことが重視されます。たとえば家、すなわち家督、家業の継続が重視されます。それに対して、プロテスタントの天職では、役割よりその人が懸命に働くことが重視されます。

まとめると、他者への無償の奉仕は、神的なものとして、様々な文化で見られる。その中で日本人の慈悲は、日常に全面化し、さらに他者への配慮を重視して、間接的な傾向がある。特に世の中に対して家業としての役割を担い続ける職分論として発展した、ということです。




日本人の中の仏教と儒教


仏教の影響が大きいですが、また儒教の影響も無視できません。そもそも日本人において、仏教の影響と儒教の影響を切り離すことは難しい。たとえば日本仏教の歴史を考えると、インドで発祥した仏教は中国に伝わり、儒教老荘思想の影響を受けて、中国仏教となり、飛鳥時代に日本に伝わります。さらには中国仏教は、その後より中国思想と融合し、儒教では朱子学陽明学、仏教では禅宗となります。そしてその波がまた鎌倉から江戸時代に日本にやってきます。

江戸時代に檀家制度として、国民総仏教徒となります。方や、朱子学は幕府に推奨されて、特に武士の倫理として重視されます。さらに日本で融合して、特に民衆道徳として生活に密着して行く中では、お互いの影響を切り離すことは難しい。

儒教にも他者への無償の奉仕はあります。儒教は葬儀儀礼から発展したと言われます。礼に従い祖先を敬う。それは儒教の中心概念、孝とつながります。礼に従い親を敬う。親もまた徳を持って子に接する。それが目上の者へ、主君へと展開され、徳治による国家運営となる。

だから他者への無償の奉仕も、徳が基本となります。世界宗教のような人類愛よりも、自らの所属する組織のために、見返りなく奉仕する面が強い。儒教は実働を重視することからも、人類のような抽象的なものよりも、目の前の現実の人を重視します。

しかし儒教において無償の奉仕は本質ではありません。儒教は宗教ではなく、合理的で統治術と言われる所以はここにあります。たとえば日本で江戸時代に武士に儒教が奨励されたのは、それ以前の武士道の非合理的な刹那主義を解消し、合理的な秩序をもたらすためと言われます。

たとえば江戸初期に流行ったのが殉死です。主君が死ぬとともに自決することが家臣の忠義とされました。このような非合理的な行為を幕府は禁止しました。その時に重視されたものが儒教倫理です。あるいは赤穂浪士も、世間から喝采を浴びましたが、儒教倫理によって、否定され浪士たちは処罰されました。このように儒教に還元されない武士道的倫理は、自らを滅して他者のために奉仕する仏教の慈悲の影響が大きいでしょう。

しかしかと言って、殉死は仏教の慈悲であるか。確かに自らを捧げることは究極の無償の奉仕ではありますが、君主のために捧げることは、そこには儒教的な縦関係があります。ここに日本人の慈悲の特徴の組織の中の役割主義があります。極端に言えば、殉死することもまた武士の一つの職分であった。世のためにそれぞれの役割を全うすることが美しい。そして役割を全うすることに世間圧が働いていた。商人も農民も役割を全うしているんだから武士も役割を全うするよね。そこに赤穂浪士への喝采の理由の一つがあったのでしょう。

武士道とは死ねこととを見つけたり。山本常朝しかり、武士は多くにおいて儒教を重視するとともに、仏教とも切り離せない存在でした。武士道は多くにおいて儒教的と考えられますが、その本質には慈悲があります。それが中国の儒教とは異なる日本人の独自性になっています。

まとめると、他者への無償の奉仕は、神的なものとして、様々な文化で見られる。その中で日本人の慈悲は、日常に全面化し、さらに他者への配慮を重視して、間接的である傾向がある。特に世の中での家として役割を担い続ける職分論として発展した。それは日本人独自の儒教と慈悲の融合として成熟した。

このような日本人の慈悲は、江戸時代末期から明治を超えて一般にも広がります。有名なものに石田梅岩石門心学があります。武士道的倫理を商人道、農民道などへ展開しました。その中心にあるのは職分論としての勤勉主義です。世のために懸命に働くことに職業の差などない。

職は誰もが世間に必要な役割を担っている上で水平のバランスであす。それはまた世間圧としても働く。さらに直接の無償の奉仕を避けることでも、職は間接的です。これは江戸時代末期から広がり、現代までつながる日本人の勤勉道徳の本質です。




プロテスタントの倫理が日本人の勤勉道徳を加速させた


明治以降、急速に西洋倫理が入ってきました。プロテスタントの倫理です。ウェーバーが指摘するように、資本主義の根底にはプロテスタントの勤勉と禁欲主義があります。そしてこのプロテスタントの道徳が、日本人の勤勉道徳の普及を加速させたことは否めないと思います。西洋人は、プロテスタントの厳しい倫理は近代化に欠かせないものとして、日本人に強くそれを求めました。日本人はそれをすでに日本の中にある勤勉道徳を強化することで対応しましま。

たとえば日本人の中になく西洋の倫理を大きく取り入れたものに性倫理があります。日本人は性倫理に対して寛容でした。このために着物では当たり前だった肌の露出の抑制、混浴禁止から、純愛思想、女性の貞淑、処女性などが法制定とともに、普及しました。。

逆に西洋の倫理から取り入れなかったものに、個人尊重があります。平等主義は神と個との原点に持つキリスト教倫理から来ています。個人重視が抑制された理由の一つは、明治時代はまさに西洋でも、民主革命の時代であり、成熟していなかったこと、さらに西洋での革命による政府転覆を目の当たりにして、政府がことごとく、左翼思想を弾圧したこと。

取り入れたのは、比較的民主化の進んでいないドイツの帝国憲法であり、皇帝の座に天皇が座る。そしてその基本にあるのは、日本人の慈悲の勤勉道徳です。天皇は勤勉道徳を神的に完璧に実践する者であり、日本の頂点であり、また公平な世間の中心である装置として作り上げられました。

結果的に、この発明はうまく機能して、短期間で日本は近代化を遂げることかできました。しかし西洋の近代化で問題が日本でも浮上してくる。経済的な格差です。西洋では、資本主義による経済発展の両輪として、民主化が進んでいました。しかし日本も明治憲法や議会制などを取り入れて民主化を進めましたが、実際は薩長を中心とした元老による政治運営で、民主化は抑制されてきました。明治維新の理念も薄れ元老が力を失った昭和初期には格差はピークに達する。折しも第一次世界大戦が終わり、反動の世界恐慌の時代です。そこで立ち上がったのが青年将校たちです。226事件では、彼らは首相や財界の有力者を襲撃しました。そして軍部運営による国家社会主義的な公平な社会を目指しました。

そこにある思想は、明治初期の理念である天皇を中心とした勤勉道徳による構造への回帰であり、軍部による国家社会主義的な運営です。革命は失敗しましたが、そこで大きく潮目が変わり、軍部中心の政治へとシフトし、その結果の国家総動員体制は、侵略戦争の強化ではありましたが、また国内運営では国家社会主義的な格差の小さい社会を目指した運営でもありました。

ここでは職分は日本人そのものまで拡張されて、全員が国のために自らを捧げるところまで達しました。日本人的な職分倫理が第二次世界大戦前の国家総動員体制で国民レベルで絶頂に達したといえるでしょう。そこにはやはり強い世間圧が働いていました。国家総動員体制は軍国主義として、軍部中心の悪弊のように言われますが、それは戦後に振り返ってからのことです。それは国民も熱狂し、支持した一つの革命でした。




日本人倫理の弱点


だから日本人は世界的に倫理的で勤勉であると言うことではありません。日本人の勤勉の特徴を述べただけです。反面として弱点を上げれば、直接的な奉仕が苦手と言うこと。西洋人が人助けに素早く反応するのに対して、他者に恥をかかせないか、自分がよく見えるようにしていると思われないか、また苦境は勤勉で乗り切るべきだという、精神論と言われるものに陥りがち。

さらには本質的に世間は日本であり、日本人圏に働くために、グローバルの中で閉塞しがちであり、日本人中心主義に陥りやすい。などが上げられます。

精神論、日本人中心主義は、振り返れば、戦前に突出しました。実際に日本の戦争の悲惨として語られるのは、敗戦前2年間のことです。すでに敗戦濃厚になってから、終わりにすることが出来ないことから、悲惨な状況は生まれました。死を捧げることを前提とする特攻、無謀な戦術、食糧もなく敵地に置き去りにされた東南アジアの兵士たち、本土空襲、そして原子爆弾。降伏しない日本に、民間人だろうが攻撃は徹底していった。戦争を合理的に判断できず、日本のために死を捧げて奉仕する精神論が先鋭化していった。

最初、B29は軍事施設をめがけて空爆していた。しかし日本のゼロ戦の攻撃を避けるための高度の高い位置からの空爆はほぼ目標に当たらなかった。そこで、軍事施設を狙うのをやめて、とにかく人の多い地域、大都市を狙う作戦になった。このような継続した国民殲滅的空爆作戦は、世界的にいまだかつてないものでした。

日本人の合理性を超えた戦争継続にアメリカ側もヒステリックになっていく。明らかに敗戦決定なのに、特攻作戦とか。アメリカの日本人殲滅作戦が始まる。原爆投下は日本人がキリスト教徒でなかったからと言われますが、それ以前にどうしたら日本人は戦争を止めるのかわからなくなったことにある。現に日本で何百万人と空爆で死に、さらに原爆が落とされても軍部はやる気だった。

日本人が戦争を止められなかった理由。天皇は神の子孫である神武天皇からの起源であり、この神の国は外国に征服されたことがない。負け方がわからない。

それを支える精神性に慈悲に基づく武士道がありました。我を滅して、国のために。いまから考えると、軍部指導者による国民の死の数を前提にした無謀な作戦に非難が集まっていますが、彼らは武士であり、また国民も武士であった。国民はみな死を国を捧げる存在であった。実際に国民が本当にそのように考えていたかは別にして。

というのは、最初から日本人が国民の死を前提にしていたわけではない。日露戦争は人類初の人海を排した物量による戦争と言われています。日本軍は徹底的に兵器を投入し、ロシアを殲滅した。それは日本に物量が少ないことから来る短期決戦戦略だった。一気に物量を投入して最低でも引き分けに持ち込む。それしか大国に勝つ手立てはない。

アメリカとの戦争もそこにしか勝機はなかった。しかしアメリカは逆に長期戦を狙った。日本に物量がないことを知っていた。鉄鋼、石油の多くをアメリカからの輸入に頼っていた日本は、アメリカ開戦時、二年程度の備蓄しかなかった。とともに、本格的に戦争をしたことないアメリカには兵器がまだ十分になかった。開戦を決めてから増産を始めた。そして長期戦になったとき、日本敗戦は確定したが、負けられない日本人に残るのは精神論しかなかった。

さらには、止めることを決定する決定機関がなかった。始めたときも現場での判断でずずるずると進んだ。ドイツがヒトラーの強い意志により始まり、ヒトラーが死んだことで終わったことと対照的です。

天皇とはなんだったのか。明治以降の天皇とは日本人を精神的に結びつける中心であり、中心であるために意志を持つことはなかった。何者にも偏らない無色であり、また究極の日本人の慈悲の実践者。教育勅語は日本人道徳の集大成であり、今にも十分通用する道徳内容ですが、天皇は究極的な実践者だった。結局、敗戦を決定したのは天皇であったし、天皇でなければならなかったが、もはや天皇が意思なく敗戦を決定せざるを得ないほどに、日本は徹底的に負けなければならなかったということでしょう。




そして戦後


国家総動員体制は、戦後も生き残り、経済成長を支えました。護送船団体制、官僚主導、終身雇用、年功序列、地方支援は、戦前の国家総動員体制への流れの中で生まれたものです。そしてそこには職分論の倫理が流れています。日本人として役割を全うする。それは日本人の公平性を支えています。

戦後の政治軸は、戦前の勤勉倫理による国家社会主義による公平性と、西洋的な民主主主義の平等との対立、すなわち保守とリベラルそして55年体制以後、自民党が多くにおいては与党であり得たのは、まさに前者をベースとしてきたからでしょう。自民党は人材的にも戦前の国家総動員体制を支えた人々が多くいた。

バブル後、不況から旧体制は懐疑されて、改革が求められました。小泉内閣はグローバル社会に対応するために、構造改革国家社会主義体制面を自由競争へと改革するよう進めました。また民主党などリベラルは西洋の富の直接的な分配の導入を試みた。これらは旧体制の日本独特の公平性との対立軸でしたが、長期の支持は得られませんでした。

それに対して、安倍政権は国家社会主義的なものを維持する旧体制への回帰する面が強い。大手企業重視の経済政策や、そして働き方改革等。職分論の継承と言えるでしょう。安倍政権の長期化は、安定的な政策の成功はもちろんですが、日本人の中の通俗道徳を基本とする国民の受け入れやすさ、安心感がベースにあるように思います。

また旧体制の問題が権力が腐敗しやすいことでした。現在、マスコミの安倍政権へと執拗な腐敗への追求は一つはかつての腐敗の経験から来るマスコミのトラウマかもしれません。その意味では、逆説的に言えば、マスコミの病的とも言える潔癖症により安倍政権の腐敗は抑制され、長期政権を支えている面があるとも言えます。




意外に根深い職分倫理


再度言えば、日本人の中で慈悲を基底とする倫理は、日常に全面化し、さらに他者への配慮を重視して間接的である傾向から、特に世の中での家として役割を担い続ける職分論として発展した。いまは家督、家名という単位は薄れたが家族、さらに個人として、職を全うしているか、それは世間に貢献しているかに繋がり、日本人にとって職は単に生活の糧を得る以上に、日本人としての存在理由に近い特別な意味を持つ。

とは言え、これからの日本人の倫理はどうなるのか?岐路に立っていることは間違いないでしょう。特にユーチューバーの躍進などネット活用での職に対する考えはかなり大きく変わっています。

むしろ政策としては定職にこだわらず、リベラルな富の分配、さらにはベーシックインカムのような政策が望まれるように思います。それでも安倍政権の、大企業優先や従来の職を前提とした働き方改革など、職に対する保守的な政策が許容されているのは、逆に驚きです。特に若者の安倍政権への支持率の高さの要因の一つには、就職率のよさ、すなわち職の安定が上げられるでしょう。さらにそれを日本人全体に広げるのが働き方改革のコンセプトでしょう。このことからも、実は日本人の職分による倫理はまだまだ根深いと言えます。




自由主義、リベラル、そして日本型世間主義


たとえばアメリカ、イギリスを代表とするような自由主義、フランスを代表とするようなリベラル、そして日本型国家社会主義、のように考えてみると、世界では自由主義とリベラルの対立が基本です。自由主義は機会の平等のもと自由競争を進めて、結果としての格差を許容する。それに対して、リベラルは自由競争抑えて富の再分配による結果としての平等を重視する。これらで前提とされているのは、民主主義。さらには個人主義です。あくまで個人が尊重されています。それに対して、自由主義とリベラルとの対立軸として、個人より共同体がある。これをサンデルは共同体主義という。その意味で日本型国家社会主義共同体主義的です。

しかし日本型国家社会主義は特殊です。職分倫理により日本人共同体が成立する。それは世間と呼ばれる。すなわち世間主義。世間は世界に日本にしかない。世間主義は、自由主義との相性が良いが、リベラルとは相性が悪い。自由主義の自由競争する個人は、世間につながることができます。ウェーバーのいうプロテスタントの天職概念が資本主義を躍進させたように。日本人の職分論は、勤勉により富を得ることを否定しません。元禄の西鶴からそういいっています。ただしそれが世間のための勤勉によってでなければすぐに凋落するだろうと。

しかしリベラルは、富を分配される個人です。結果としての平等を重視する。勤勉であるかどうか関係がない。無条件に救済される個人であり、強烈な平等の思想です。世間は、懸命に職を全うする勤勉の先に皆が享受できる共同体の豊かさがあります。そこに共同体の公平がある。働かざる者食うべからず、です。

ざっくり言えば、自由主義 小泉構造改革、リベラル 民主党政権、日本型国家社会主義 安倍政権と言うことです。小泉政権働き方改革なら、中途採用の奨励、雇用の流動性を重視したでしょう。現に小泉政権構造改革で非正規雇用が急増しました。民主党は、働き方よりも個人への富の再配分を重視する。そして安倍政権の働き方改革は、雇用の安定を重視します。多様な生活環境でも解雇されないよう、働き続けられるよう多様な勤務形態を許容することを目指す。

アベノミクスで金融緩和は実行しやすいし、即効性がありました。特にその前の民主党政権円高放置の経済音痴だっただけに。それが安倍政権のもっとも大きな効果です。そしてその効果をどのように活用するか。働き方を改革はその一つです。経済政策であるとともに、日本人の生きがいとしての職分を取り戻す。それは経済政策であり成功するかどうかにかかわらず、世間主義に訴えかける。