なぜ日本人は他人を救済しないのか

なぜ日本人は高い社会秩序を維持できるのか


世界的にも日本人ほど秩序の高い社会を営んでいる人々はいないだろう。このような高い秩序は、国家などトップダウンの厳格な法と規律訓練により可能になると、個人主義の西洋の文脈では考えられがちだ。しかし日本人は、特別、法、規律訓練が厳格化ということはない。この日本人の秩序を維持しているのは、通俗道徳である。小さい頃から厳しいしつけをしている訳ではなく、日本の通俗道徳は日本社会の慣習に組み込まれていて、日本で生活する中で、そのように振る舞っている面が強い。

勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従など儒教徳目を基礎とした通俗道徳は、時代遅れになりつつあると言われる。新たな秩序は、合理的で、個人を尊重する西洋近代的なものである。そこには、流れがある。通俗道徳から西洋合理性へ向かうことが正しいと。

それでも、いまの日本人の秩序は、西洋人のそれとは大きく違う。それは通俗道徳の本質が代わっていないからだ。確かに儒教的徳目は失われつつあるかもしれないが、本質である慈悲は変わっていない。より具体的には他者への配慮である。たとえば現代的な例では、空気を読むこと。あるいは世間圧。徳目は時代による変化はあっても、他者へ配慮しあう、互いに空気を見合うことにより、秩序を維持する日本人の秩序維持の特性は代わっていない。




なぜ日本人にはシルバーシートが必要なのか


外国人にとって、日本語一つにしても覚えるのは難解だし、それが日本の文化と密接であり、外国人が日本に住むのが大変なことは想像に難くない。他人を受け入れることに関しても、往々にして西洋人の方がフランクだ。たとえば西洋人は電車の中でお年寄りを見ると、さらっと席を譲る。シルバーシートなんて改めて決めているのは日本だけだ。

日本の慈悲は、弱者を救済しない。なぜなら仏教において、この世界に生きるすべての生きとし生きるもが弱者だからだ。だから弱者救済は暴力だ。誰かを弱者に貶めている。弱者も強者も、世間に慈悲を施す。救済という行為にはからなず、力関係が生まれる。慈悲はそれを戒める。日本人の他者への配慮とは、弱者救済ではない。みなが世間のために行う当たり前の配慮だ。ここに日本人の公平性がある。他者へ配慮することで、救済になっていないか、配慮する。互いに繰り返し繰り返し終わりなく配慮し合う再帰運動。それが現代なら日本人の空気を読むということだ。

日本人は救済することが嫌いだし、救済されることも嫌いだ。弱者に貶められる。だから根性論がうける。弱者であっても、助けを求めずみずから立ち上がる。自ら立ち上がれ!日本ではみな公平だ。

日本人ほど、他者へ配慮する再帰運動が活発な国民は他にいないだろう。外国人がよくいう日本人に対する印象、なにを考えているかわからない、言っていることと本音が違う、自分の意見をはっきり言わない。日本人の重層な再帰運動を前にした、単純な再帰運動の外国人の典型的な反応だ。日本人は本音を言わないのではなく、配慮の運動を繰り返して、絶えず相手と調整している。すなわち空気を読んでいる。しかし外国人にはこれは苦しいだろう。なぜなら再帰運動は、西洋精神分析でいう神経症と同じ構造だからだ。西洋人にしたら日本人の再帰運動は頭がおかしくなる。




なぜ日本に表示にあふれているのか


初対面の日本人の若者を数人集めて、名前をつけた名札をつけて共同作業をさせた。初対面の人たちはうまく連携できずに、作業が進まなかった。そこでみなの名札に年齢を書きこんだ。すると、途端に連動しだして、作業の効率が上がった。日本人らしいエピソードだ。会話するにしても、年齢がわからないと、タメ語なのか、敬語なのか、フリーズしてしまう。

日本人は再帰運動に慣れているが、それを補完するのが、儒教的礼だ。礼は理屈でなく、決まったルールだ。儒教的礼だけでなく、日本人は多くのルールを作るルール大国でもある。シルバーシートはその一つだし、日本の社会には、他国で信じられないぐらい沢山の表示にあふれている。

たとえば日本の駅に行くと狂ったように表示があふれている。日本人の他者へと配慮であるとともに、再帰運動の負荷を低減させるためだ。指示が明確でないと、日本人同士が何が正しいか顔を見合って、しまう。外国人ならみんな自分の好きにするだけのことだろうが。多くの指示は、不特定多数が集まり生まれる再帰運動にかかる社会的な負荷を低減している。これが行き過ぎると、大きな声で一方向に全体が流されやすい面が出てくる。また儒教的礼が衰退してから、日本人の中でうまく空気を読めず、精神疲労する人が増えているのも確かだ。




なぜ日本製品は世界に拡散できたのか


なぜか世間のポジティブな面はあまり語られない。日本人の中の終わりなき再帰運動を日本人は自虐的にガラパゴスと呼ぶが、みなのために奉仕するという日本人の世間の倫理は、たとえば生活空間としての広義の社会インフラを向上させて、世界的にも優秀な豊かで公平な社会を実現させている。

たとえば日本人が100円でチョコレートを買うとき、それはすでに美味しいのである。チョコレート屋は100円の安い商品だろうが、美味しいものを作ろうと努力する。日本の社会では高いからうまい、安いからまずいという合理的な経済法則は成り立たない。西洋のサービスは、価格により明確にランク分けされている。だから誰もが使う公共サービスは質が悪い。対して、日本のおもてなしは対価に相関しない。安い金でもできる限りのおもてなしをする。

その中から多くが世界へ発信されて、世界へ慈悲を届けている。日本製品、日本の工場、そして日本の影響を受けた製品は世界に拡散して、世界の社会インフラを向上させている。たとえば日本の品質管理技術は、世界中で取り入れられて、高品質な製品を安価に世界に拡散している。

ただ日本人の慈悲の再帰運動がやりすぎて、ガラパゴス化して価格が上がって、世界の貧しい人達が買えない。それを中国人は適度に手を抜いてコストを下げて、世界に発信している。中国、韓国は、日本人の慈悲の優秀な拡散機関とも言える。そしてそれら製品の中で日本の慈悲は世界の幸福を祈っている。



なぜ日本人は日本人批判が好きなのか


なぜ日本人は自虐がこんなに好きなのか。日本人批判をするのが大好きだ。一つの理由は、島国の閉じた疑似単一民族で、閉塞しやすく、自ら否定することでしか、閉塞から逃れることができないことがある。現に、弥生時代の稲作伝来から、輸入された文化が次の世代を作ってきた。稲作、鉄器、儒教、仏教、中央集権制、貨幣などなど。だから自虐は、外国に比べられて嘆かれる。iPhoneに比べてガラケーは・・・。

iPhoneの使いやすさを不思議に思う人は少ないのだろうか。PCを作った同じアメリカ人が作ったとは思えない。PCは思いのほか、広がっていない。使いにくさは情報弱者を排除する。情報強者の優越の箱とも言える。なぜiPhoneがこんなに番人受け入れられたのか。その前にiモードがあったからだ。そこで組み込まれているおもてなしの精神が、iPhoneに引き継がれた。日本人がwindowsを作っていればPCはこんなことにならなかった。

集中力もシンプルさに対する愛も、「禅によるものだ」とジョブズは言う。禅を通じてジョブズは直感力を研ぎすまし、注意をそらす存在や不要なものを意識から追い出す方法を学び、ミニマリズムに基づく美的感覚を身につけたのだ。P420

スティーブ・ジョブズ2 ウォルター・アイザックソン ISBN:4062171260