なぜ「菊と刀」は名著なのか

pikarrr2018-01-27

日本人の贈与論


菊と刀」は、太平洋戦争時にアメリカ政府が敵である謎の民族日本人を知るために、文化人類学ルース・ベネディクトに分析を依頼して作成されました。文化人類学と言えば、モースの「贈与論」が有名です。未開社会では贈与と返礼というエコノミーにより、社会秩序が運営されていることを発見しました。贈与のエコノミーとは、贈与に対して返礼するという交換を基本とします。モースの贈与論では、贈与されると返礼がマナという神的な力にまで昇華されて、人々の行動を強制します。

菊と刀」もまた贈与論の系譜にあります。日本人は恩、義理、恥などの贈与のエコノミーが強く働く人びととして、西洋人の合理主義と相対化して描かれました。この方法は多くにおいて成功していると思います。ある面で、これほど日本人の特性をうまく分析している本は他に見当たりません。

ルース・ベネディクトは日本を一度も訪れずにこの本をかきましたが、歴史から風習までよく学んでいます。天皇明治維新に間に合わせで作られた存在であることも書かれています。それがなぜあれほどの求心力を持ち合わせたのか。江戸時代から恩などの返礼の力学を天皇に集中される仕組みを明治政府が作ったからだと、的確に分析しています。

日本人は生まれながらに世間に恩という負債を持つ。社会を作ってきた先人たちへの恩、育ててくれた親への恩。義理を欠くことは日本人として許されない。そして究極的には建国の父である天皇への恩を持つ。この負債への返礼の力学が、階級社会にもかかわらず、反抗もせず日本人の社会が秩序維持される理由である。西洋人の合理性から理解できない日本人の謎の源泉であると、分析されます。




アメリカ人の贈与論


これは日本人の一面ではありますが、書かれたのが太平洋戦争時ということもあるでしょうし、文化人類学者故に贈与論という手法に頼りすぎて、あまりに日本人の忠誠を協調しすぎています。

確かに戦時中、天皇への忠誠、国への忠誠はマックスに達しましたが、それ以前は恩や義理は日本人の一面であり、むしろ江戸時代はプレ資本主義、明治以降は自由競争社会で、経済的な合理性を生きていました。

武士に統治される村社会でありつつ、実質的に社会保障制度はなく、それぞれの家は自営業の経営者であり、いかに生産性を上げるか、どのような作物を作ると高く売れるかなど、その経営手腕により、家が富むか、消滅するか決まりました。恩や義理など共同体としての協力も大切ではありましたが、それもまた自由競争社会を生き抜くためでもありました。

アメリカは、清教徒が移住した国で、敬虔なキリスト教の国です。お金持ちは暗黙の強制で多額の寄付をするのが当然ですし、またボランティアは市民の当然の義務です。日本では考えられないですが、今も民間の社会保障は国家によるものと民間が両輪で働いています。それはまさにアメリカ人の贈与文化です。その基本にあるのは、神への贖罪という負債へと返礼です。

またアメリカは開拓地なので、個人の努力と采配による経営で貧富が決まる自由競争社会で、西洋でも珍しく勤勉を尊く重視する国ですが、それはまたアメリカ人の勤勉はプロテスタントの天職として位置づけられました。すなわち神への贖罪の一つです。日本人もまた厳しい自由競争を生きるために勤勉が重視されましたが、勤勉は仏教の慈悲によって世のための奉仕としても位置づけられていました。

ルース・ベネディクトは、贈与論の系譜から、贈与の力学の返礼への義務、すなわち負債を協調します。それはモースの「贈与論」からの特徴ですが、もしかするとキリスト教の贖罪文化からきているかもしれません。西洋人はキリスト教の贖罪文化から、無意識に負債への強い思い入れがある。たとえばモースとともに、負債を重視した思想家がニーチェです。キリスト教徒を負債への返礼に囚われたルサンチマンと呼び、そこからの脱却として、ディオニソスや、超人、力への意思などを対峙されました。それだけ西洋人の負債への思い入れを表していると言えます。




日本人の慈悲論


ボクの慈悲論では、贈与と返礼うち、贈与側を重要します。キリスト教の贖罪では人類への負債から始まり、神への返礼に答えることで天国に行けますが、仏教では、涅槃に達するために、慈悲を施すことが推奨されます。

慈悲とは見返りを求めない贈与です。仏教の贈与論は巧妙で高度です。贈与は贈与であってはならない。返礼を求めたり、相手に返礼への負債を与えた時点で慈悲ではなくなる。だから涅槃には生きたいと贈与することもまた慈悲ではありません。

日本人は江戸時代に慈悲を学びました。日本人の贈与は、相手に負債を与えないことを理想とします。たとえはおもてなしは相手におもてなししていることを気づかれないように気遣う。たとえば空気を読むとは、発言することで相手が気を使うことを考慮し、相手を気遣っていることを相手に気を遣わせないように配慮する。この高度な贈与論は西洋人には理解できないでしょう。ただ日本人は曖昧だ、はっきりしない、言っていることとやることが違うとしか見えないでしょう。

菊と刀」の贈与論では、動力因として(負債への)返礼を強調しますが、慈悲論においてはむしろ世のために贈与する能動性が重要です。そしてルース・ベネディクトが階級社会と呼んで見落とした公平性が現れる。士農工商みな、世の中の為になくてはならない職分である。天皇は頂点ではなく、中心点である。ルース・ベネディクトは日本人の慈悲という高度な贈与を見落とし、文化人類学者、そして西洋人らしく(負債への)返礼を強調して日本人を分析したのではないか。

それでも「菊と刀」は、敗戦に向けての極限の中で現れた日本人の本性の一面を、的確に描いていると思います。そしてまた文化人類学としての贈与論の名作です。日本人論でありつつ、西洋人を含めた人間の一面を描いていると思います。


だから、奴隷こそが慈悲を施さなければならない。



東洋諸国民は全くこの逆である。彼らは過去に負目を負う者である。西欧人が祖先崇拝と名づけているものの大部分は実は崇拝ではなく、また祖先にだけ向けられているのでもない。それは人間が過去一切の事物に対して負っている大きな責務を認める儀式である。さらに彼が負債を負っているのは、過去に対してだけではない。他人との日々の接触のことごとくが、現在における彼の責務を増大する。彼の日ごとの意思決定と行動とはこの負債から生じてこなくてはならない。自分がこうして大切に育てられ、教育を受け、幸福に暮らしていられるのも、第一、この世に生まれてきたことからして、すべて世間のお陰であるにもかかわらず、西欧人はこの世間に対する負目を極端に軽視しているという理由で、日本人はわれわれの行動の動機が不十分であると感じる。非の打ち所のない人間は、アメリカで言うように、私は誰からもなにひとつ恩義を受けていないとは言わない。彼らは過去を度外視しない。日本では義とは、祖先と同時代とをともに包含する相互責務の巨大な網状組織の中に、自分が位置していることを認めることである。121-122


「義理」の規則は、厳密に、どうしても果たさなければならない返済の規則である。それはモーセ十戒のような一連の道徳的規則ではない。「義理」は強いられた時には、場合によっては、自分の正義感を無視せねばならぬこともあるというふうに考えられている。日本人はしばしば、「私は義理のために、正義を行うことができなかった」と言う。また、「義理」の規則は、隣人を自分と同じように愛するといこととも、なんの問題ももたない。日本人は、人が真心から自発的に寛大な行為をすることを要求しない。彼らは、人が「義理」を果たさなければならないのは、「もしそうしなければ、人びとから、「義理を知らぬ人間」と呼ばれ、世人の前で恥をかくことになるからである」、と言う。「義理」にどうしても従わなければならないのは、世間の取り沙汰が恐ろしいからである。P174


菊と刀」 ルース・ベネディクト 講談社学術文庫 ISBN:4061597086

しかしあのもう一つの「暗い事柄」、すなわち負い目の意識、「良心の疚(やま)しさ」なるものは、一体いかにして世界に現れたのであるか。・・・これら従来の道徳系譜論者たちは、例えば「負い目」というあの道徳上の主要概念が「負債」という極めて物質的な概念に由来しているということを、ただ漠然とでも夢想したことがあったろうか。


道徳の系譜」 ニーチェ 岩波文庫 ISBN:4003363949