キミの見ている赤とボクの見ている赤は同じか

pikarrr2018-09-20

赤とは赤に関する言葉の用法の束だ。人々は同じように赤ついて語る、用法を使うことで、赤の意味を共有している。実際、キミの見ている赤とボクの見ている赤が同じかどうかなんて関係ないし、問題もない。意味ではなく、用法である。「規則」ではなく、「規則に従う」だ。

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)したがって、「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践なのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」 


『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076

たとえば光学的に言えば、色は光の波長により無限にある。赤も無限にある。しかしそれまでの訓練されたパターンでしか認識されない。だから正確には、見え方は人によって違う。色に関する仕事についていれば、より多様な色を経験して学ぶ。普通の人が赤として認識する赤も、より細分化して視ることができる。「赤の概念」が赤を視るまえにあるわけではない。

たとえば盲人でも赤を認識する。なぜなら生活の中で人々が赤を実践することを真似ることで習得する。たとえば日常で赤い服を着るのは派手すぎて目立つからやめた方が良いということを学び、盲人もまた赤い服を着ることを避けることを実践する。そのような実践の積み重ねから赤を認識する。それは目が見える人と何ら変わらない。

たとえば科学的にも赤を視るとは光の波長が目で感受して、というような光学的なものではないことがわかっている。赤を視るとは、基本的は入力される光学的な情報とは相関なく、自己産出オートポイエーシスされる。自らの中で作り出される。いかに作り出されるかは、それまで赤を視ることを見よう見まねで訓練した方法で視る。

かつてアリストテレスが名指しされた。名「アリストテレス」は、そこからさまざまな経路を通り伝達される。それゆえ名「アリストテレス」はいまや、複数の経路を通過してきた複数の名の集合体である。・・・名「アリストテレス」にはつねに訂正可能性が取り憑く。固有名の単独性を構成し、かつ同時に脅かすその訂正可能性を、・・・「幽霊」と呼ぶことができるだろう。名「アリストテレス」はつねに幽霊に、つまり配達過程で行方不明になってしまった諸々の「アリストテレス」に取り憑かれている。・・・その経路を抹消して主体の前にある(=現前)固有名から思考するときにこそ、ひとは固有名の剰余、単独性を見いだす。すなわち単独性は幽霊たちを転倒することで仮構される。


存在論的、郵便的」 東浩紀 (ISBN:4104262013

アリストテレスという名は様々な状況で語られてきた。すなわち実践されてきた。それを、真似られて伝達されてきた。それはそこにはさまざまな意味があり、ときに、意味もなく、とにかく語られてきた。それをデリダは散種と呼ぶ。なのに、現代はコンスタティブな意味を持つ。それをデリダは多義性と呼ぶ。

現代では最初から、アリストテレスにコンスタティブな意味、多義性があったように錯覚されている。様々な名の使われ方、散種は失われて幽霊になって。これが「散種から多義性への形而上学的転倒」。多くのただの見よう見まねによる誤配、幽霊、差延により、あたかも最初から意味、概念が明確にあったように、形而上学的に転倒される。それの結果がコンスタティブな意味、論理だ。

「数の概念」を知らなくても、誰かがりんごを5個まで数えているのを見よう見まねで覚えて、りんごを5個まで数えることを実践してみる。その時にはその人は「リンゴを5個まで数えること」を覚えただけで、りんごを6個まで数えることを覚えたわけではないし、人も同様に5人まで数えられることを覚えたわけではない。

ラカンの「シニフィエに対するシニフィアンの優位」も同様に理解するべきだ。シニフィエ意味より、シニフィアンという発話用法が先にある。ラカンシニフィアン大文字の他者という。大文字の他者とは簡単には社会の慣習だ。社会的な経験により自らの中に大文字の他者を獲得する。それを去勢というが、ひとは去勢されて、社会的な存在となり、無意識は言語活動のように構造化される。人は訓練されたシニフィアン言葉の使い方で話すわけで、言いたいことシニフィエがあり、それを伝えるために発話するのではない。シニフィエ意味は発話の後に事後的に現れるにすぎない。

このようなことは日本人の生活ではあたり前かもしれない。この世界は、何ものもそれそのもので成立するものはなく、関係しあって成立している。すなわち縁起。また空。空とは有と無、生と死、我と他、赤と青の向こう。日本人の文化は大乗仏教を基盤とすることで空観に慣れ親しんでいる。ウィトの「私は当にそのように行為するのである」は空観であり、デリダの「散種から多義性への形而上学的転倒」からのリバース、すなわち脱構築もまた空観。日本人は、西洋人から曖昧、裏表があるなどと言われるが、それは日本人が知らず知らずに見よう見まねで身につけた空観だ。

とにかく、第一段階として、もろもろの存在は相依って、相互限定によって成立しているものであるから、法有の立場において主張するようなそれ自体(自性)を想定することはできないということが説かれ、次いで第二段階としてそれ自体(自性)が無いからもろもろの存在は空でなければならぬといわれる。この論理的基礎づけの順序は一方的であり、可逆的ではない。
このような縁起・無自性・空の三概念は同義であるけれども、その中で縁起が根本であり、他の二つは縁起から論理的に導き出されるものであるから「中論」が空および無自性を説くにもかかわらず、ナーガールジュナが「中論」の帰敬偈において「縁起を説く」と宣言したのもおのずから明らかであり、そうして「中論」の中心思想は縁起であるという主張がいよいよもって確かめられることになる。P243


「龍樹」 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4061595482

(画像元 http://blog.livedoor.jp/sikisainooto/archives/1823188.html