溢れる余剰 その8 2ちゃんねるを遊星するプログ群

発散する2ちゃんねる


肥大しつづける2ちゃんねるにおいて、「2ちゃんねる」は2ちゃんねるスタイルを様式化させ、反「大衆」を目的化している傾向が増している。さらにマスメディアに取り上げられることにより、よりいっしょうそのような役割を担うことが意識されてきているように思う。たとえば、昔の2ちゃんねるは良かったという2ちゃねらーが多いが、すでに反「大衆」に内面を暴露することが様式化された発言で溢れている現状を嘆いているのではないだろうか。昔は反「大衆」をいかに試みるか試行錯誤する楽しみがあったというわけである。

それは「フレーミング族」というようなほぼ2ちゃんねるスタイルのみを目的にする2ちゃねらーもあらわれているかもしれない。このような傾向は、2ちゃんねる内の、秩序性、理性的発言、建設的な発言、スレッドへの攻撃と向かう傾向もある。

狙われるのは、例えばコテハンである。コテハンは主体の連続性を保証する。このために一方向のフレーミング戦巻き込まれやすい。コテからはフレーミング相手はみえず、名無しからはフレーミング相手を特定できるという一方向性が現れる。また同様なことが継続性が高く、帰属性の高いスレッドにも言える。2ちゃんねるに巣くう「フレーミング族」はこれらの連続性、秩序性を攻撃することをゲーム化しているといえる。このようなスタイル化され、だれでも暴露的、煽り的発言は、場を発散させ、2ちゃんねるが内包する自己制作的な多様な記号コミュニティ群の差異化運動を閉塞させる面がある。



ブログへ向かう2ちゃねら

このような中で2ちゃんねるの自己制作的な多様な記号コミュニティ群の補完として、ブログは発展してきているように思う。荒れる2ちゃんねると飛び出して、ブログにおいて落ち着いて自己構築を行おうというわけでる。

ブログはパーソナルなHP、日記の発展系であると考えられるが、特徴は他者に開かれている点にある。掲示板機能を持ち、さらにリンクされたことを知らせる、またはトラックバックされる/するというように、システム的に同じ興味をもつものとの関係が構築されていく。このために、ブログは、従来の日記や、パーソナルなHPのような自己閉鎖系、静的なものに比べ、最新の記事のリンクを張り、それに簡単にコメントをつけるという開放系、新鮮な情報を供給し続けるというような動的な傾向にある。これはマスメディアのニュースサイトに近いデータベース場として構築されるものが多い。

そしてリンクを張り合う、トラックバックしあうというブログ間でコミュニケーション機能は、2ちゃんねるなどの掲示板のように即時的な会話コミュニケーション場に比べ、いわば「書簡的」なコミュニケーション方法であり、コミュニケーション場として他者との関係はゆるやかなものとなるが、他者と一定の距離をおくことにより、ネット上のディスコミュニケーションの問題を回避することができる。そのようにしてブログ群のゆるやかなネットワーク網としてコミュニケーション場を形成している。



2ちゃんねるとその周辺

アメリカなどでは、2ちゃんねるのようなコミュニケーション場はなく、ブログが主流であると聞く。この当たりの事情はよく知らないのでなんとも言えないが、民族性?なのか、日本のブログ自体は、コミュニケーション場としてよりも、やはりデーターベース場として機能しているように思う。だからブロガーは2ちゃねらーである場合が多いのではないだろうか。2ちゃんねるが内包する多様な記号コミュニティと遊星的に距離を保ちながらブログは存在し、彼らはブログと2ちゃねるを行き来するのである。ここには2ちゃんねるという混沌としつつある活発なコミュニケーション場と、自己を制作するデーターベース場という周辺という構造が見られる。

たとえば、今回の人質問題や、Winny開発者逮捕においても、まとまった情報を得やすいのはブログである。そしてそこでそれぞれのまとまった主張をみることができる。しかしそれらの発言の多くが、マスメディアとは反対であっても理性主義的過ぎる面はいなめない。2ちゃんねるが反「大衆」とすると、そこに存在するのはやはり反体制的主張なのである。それはこのような文章(エクリチュール)を書くと言う行為そのものに内在する必然的な論理性が理性主義的傾向へ繋がっているように思う。まとまった文章を書くと言うことはそれだkで、理性的でなければならないという近代的な自律した主体を呼び起こす行為なのではないだろうか。

その点では、やはり2ちゃんねるはさらに多様に混沌とした発言を見つけることができる。それは理性的にみれば、馬鹿発言で、即時的な、おもしろ半分ということになるのかもしれないが、しかしその中ではやはりわたしたちの中にある不条理な野蛮性の暴露があるのである。そしてなにが良い、悪いということではなく、現在、マスメディアにしろ、ブログにしろ、その理性的な言説は、2ちゃんねるという野蛮性との相対化なしでは構築することができなくなっているという事実があるのではないだろうか。それはマスメディアさえも2ちゃんねるの周辺化しているということかもしれない。