2008-02-01から1ヶ月間の記事一覧
*所々、未完成です。しばらく完成を目指すほどの時間がないので、とりあえずおきました。ご興味のある方はどうぞ。 1 収束(主体)−拡散(動物) 2 否定神学/脱構築 3 マクドナルド化と動物化 4 収束−発散構造論 5 終わりなき連鎖としての否定神学−脱…
ラカンの否定神学的主体論 ラカンはフロイトの一部、「快感原則の彼岸」と重要視し、展開した。簡単にいえば、人間は快感原則=動物とは違うということだ。どのように違うのか。動物は先天的な遺伝子情報によって、多くが決定されているが、人間は後天的な教…
デリダの構造論と倫理論 たとえば「日本人」を考えましょう。日本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。デリダはこれを形而上学と呼びます。「日本人」という…
「中国製冷凍製品」パニックの形而上学 たとえば以前、東海村で原発事故があったときに、オーストラリアからの留学生が母国へ帰ったというニュースがありました。彼は九州あたりの大学に留学していて、日本での原発事故のニュースを聞いた彼の母親が避難する…
コギトの救済 デカルトは科学者であり、機械論者である。「方法序説」(ISBN:4003361318)を読んだだけで、あの科学の黎明期に、もうどれだけ科学がおもしろくてしょうがなかったか、その熱中さが伝わってくる。それとともにまたデカルトはキリスト教者でも…
考える名無しさん 柄谷の単独者というコンセプトは「私」という実存的な問いが「ほかならぬこの」という否定神学的な構造・他者関係へと媒介されることで普遍性へと「飛躍」するという流れになっていて、いわゆる「主体」とは関係ない。むしろ「構造」「歴史…
悪いことをすればいつか罪を償う 日本昔話は教育的な番組といわれる。なぜ教育的なのだろうか。簡単にいえば、良いことはすれば報われ、悪いことをすれば、罪を償うという構造を持っているからだ。すなわち、「負債は必ず支払われる」ということが、倫理の基…
「科学的」とはなにか 伝統の終焉は、どうやらその実質的内容自体に対する異議申し立てではなく、伝統の権威が崩壊することによって始まるらしい。ニーチェはこうした権威崩壊の成り行きを、無類の簡潔さで「遠近法的(パースペクティブ)思考」と呼んだが、…
1 動物化とスノビズムと村上春樹風 2 村上春樹風超人とオタクの自己組織化 3 なぜ動物は死なないのか 4 村上春樹はなぜオーム真理教事件に惹かれたのか
DNA配列の危険 西洋哲学の根底には、人間/動物という対立が流れてきました。ギリシャ時代でいえば、人間とは労働から解放され、社会の中で自由で平等に振るまえる主人です。動物は奴隷など主人に従い、労働に従事するものです。今ではわかりにくいですが、…
現存在的の物語 ボクがいう「物語」とは形而上学的なものです。よりわかりやすくいえば、「私はなにものであるか?」ということに対する答えです。「ボクは〜年生まれで、〜という父母の間に生まれて、〜のような性格で、〜のような経験をして、〜のような長…
ショコタンは女らしくない ショコタン(中川翔子)についての話が滅茶苦茶面白かった。岡田氏曰く「女らしさの削ぎ落とし方が凄い」。確かにオタク的なことに理解があり、熱心(というかガチ)なオタクで、吸収力も半端ではないが、一見して理想的なオタクの…
「なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080204に質問をいただいたので、解説してみる。 「物語」とはなにか まず「物語」とはなにか。それは動物と違う「人間」とはなにか、ということです。動物は「世界において自分は…
不安と孤独の強度 現代において、人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということだ。この強度を受け入れることはそう簡単なことではない。人はこの強度…