2007-02-01から1ヶ月間の記事一覧

4年目突入、そしてブログはどこへ向かうのか・・・

いつのまにやら、気がつくとこの「ブログ」も今月で4年目に入りました。よくもまあ3年もと思いますが、またいつのまにやら3年という感じです。というか、そもそもこれは「ブログ」ではないように思います。「ブログ」の特徴は、従来のホームページのよう…

なぜ池田山形論争はおもしろいのか   経済学の彼岸 その4

なぜ山形氏は経済学のマスターたちへ質問状を送ったのか 池田山形論争は終演しつつあるが、その終わり方は実に象徴的である。山形氏が経済学のマスターたちへ質問状を送ったことは異常な行為であるのだろうか。正しすぎる故に異常である。(「クイズ:経済学…

なぜ経済学で「幸福」は語れないのか  経済学の彼岸 その3

「 なぜ池田氏は「普通の経済学」といったのか 」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070216のコメント欄からの転用です。(改訂有り) tako 別に経済学は「幸福」議論していないわけではないんだけど。ただ、標準的な大学の学部レベルの経済学では議論しにく…

なぜ池田氏は「普通の経済学」といったのか  経済学の彼岸 その2

「普通の経済学」の「基礎の基礎」 「なぜ経済学的予測は必ず外れるのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070215にも書いたが、「池田信夫 blog」http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo界隈の「生産性」に関する「物語」はやはり興味深く、その後、展開もある…

なぜ経済学的予測は必ず外れるのか  経済学の彼岸 その1

賃金水準はいかに決まるのかまめに読ませていただいている「池田信夫 blog」http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuoですが、特に最近の生産性に関する議論は経済学素人のボクでもおもしろい。 生産性をめぐる誤解と真の問題 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/c…

なぜ無意識という概念はいまだにラディカルであるのか

ヒトの環境世界は脳機能から生じた写像でしかないわけです。なぜなら、認識可能な環境世界は写像でしかなく、その写像世界とのインタラクションとして行為や知覚も脳機能から生じた写像なのですからとうぜんより強い構造化=脳化へと向かうわけです。われわ…

なぜ創造は可能なのか  超越論的「言語ゲーム」システム

「なぜ「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」は心身二元論を要請するの」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070202で示した「超越論的「言語ゲーム」システム」を改訂する。 1) 言語ゲーム(学習Ⅱ) 人はゼロ学習、学習Ⅰは不可能であり、コンテクストを読…

なぜこの異常な世界で平穏に生活を営むことができているのか

感動共有の可能性 たとえばコンサートで感動しみんな立ち上がって、手をたたいている。しかしはたしてほんとうに隣の人は感動しているのだろうか。あるいは私と同じ感動をあじわっているのだろうか。コンサートはよくできた感動共有装置である。閉鎖空間、感…

なぜ笑いは武器なのか

「笑い」とは「敵意のないこと」 腹の皮を捩(よじ)る、腹を抱える、笑い崩れる、噴き出す、大笑い、馬鹿(ばか)笑い、高笑い、愛想笑い、作り笑い、せせら笑い、薄ら笑い、鼻で笑う、苦笑い、忍び笑い、含み笑い、不適な笑み、氷の微笑、謎の微笑み、母のよう…

なぜ映画「グエムル」は快楽なのか 

なぜいきなり怪獣映画なのか たとえば狂気とは電車の中での独り言である。電車の中でのケーターは迷惑であるが、狂気ではない。彼は急いでいたのか、気にしないのか、とにかくマナー違反であることを知っていて、あえてやっていることをボクたちは知っている…

なぜ「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」は心身二元論を要請するのか

「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」という「断絶」 後期ヴィトゲンシュタインでは、「なぜ曖昧な日常会話が成立しているのか」と問われる。ヴィトゲンシュタインは、そこにある集団内で共有化された基底を「言語ゲーム」と呼んだ。「言語ゲーム」は人々に…