なぜ日本人のコロナ対応だけが法よりも同調圧力なのか

コロナ対応のさまざま

 

世界的にはほぼ西洋人タイプか中国人タイプになる。なんで唯一日本人だけが変わってるのか。

<西洋タイプ>

憲法の非常事態に基づいた行動制限法、違反したら逮捕。要請したって守るわけない。法律を制限しても暴動起こして反発する

<中国タイプ>

要請なんて絶対無視。法律でも守るか怪しい。だから共産主義権力で、厳しく逮捕、拘束、罰金、資格剥奪。法律に則っているかも怪しい圧力。

<韓国>

一番日本に近くで世間圧が働く。でもあそこも国家権力が強くて法律はしっかり作って守らないものは行動をネットで公開されるとか見せしめやってたね

<日本>

なんか緩いコロナ関連の法律作ったけど使ってないだろう。国家圧力も別にない。なのに世界で一番コロナ対策を行われた。同調圧力と言われる。同調圧力だけで国を左右する国

 

社会系倫理と世間系倫理

 

日本には、社会系倫理と世間系倫理があると言うこと。社会系はようするにこれ法律に基づく法治、ある程度世界標準。

では世間系はなにか?コロナで、日本は欠陥憲法のために非常事態宣言が出せなかった

法的な拘束力持つ私見規制が出せなくて、緊急事態宣言と言う、お願いベースしか出せなかった。

でも日本人は世界一のコロナ体制を取れた。みんなマスクして、外出自粛した。なぜか?世間系倫理が働いたから。同調圧力と言われたけど、その大元は世間系倫理。世間のために、世間が求めるから。

たとえばモリカケさくらの安倍叩き。あれば社会系倫理では問題がない。なにも法に触れてない。かつてのロッキード事件のように明らかに賄賂をもらってたら裁かれるがそれがないのは野党も認めるところ。忖度を禁じる法はない

でもあれたのは世間系倫理。そう野党は法的に問題ないことはわかって、世間系倫理に訴えた。忖度と言う言葉は世間系倫理用語。

面白いのは左翼は本来世間系倫理を認めず社会系倫理、すなわに法を重視する立場なのに世間系倫理使って世間を訴えて同調圧力を促した。そこまでやってなんとしても安倍叩きをしたかった。

左翼は、社会系倫理を重視する立場、世間系倫理という曖昧で日本ローカルなものはできるだけなくす立場。保守、右派は、当然法治国家なので社会系倫理がベースだか世間系倫理も大切にする立場。

日本人はコロナでわかるようになんだかんだ言って世間系倫理を重視している。頭では社会系倫理が大切とわかっていても。だから自民党が安心する。自民党を支持すると言うよりも、心が安心する。

 

世間と社会

 

いまでは世間はすっかりマイナスイメージ。社会は民主的で平等なのに対して、世間は曖昧で古くて抑圧的で薄情。しかし世間が生まれた江戸時代は世間は良いイメージだった。「渡る世間に鬼はなし」世間は公平で弱者も救われる。さらにとても倫理的な意味を持つ。世間には恥じないように生きることが大切なことであった。

それがネガティブに変わるのはまさに明治にソサエティ翻訳語として社会が生まれて西洋的倫理を持つことで対比として世間は貶められた。

世間とはもともと仏教は用語で世界のこと。すなわち日本人が世間的と言うとき、日本人は世間という仏教的な倫理が作用する世界を生きてる。それは江戸時代の長い平安の中で成熟した。

 

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 要するに、西鶴が(永代蔵で)いうには、この世にある願いは、人の命をのぞけば、金銀の力でかなわないことはない。夢のような願いはすてて、近道にそれぞれの家業をはげむがよろしい。人のしあわせは、堅実な生活ぶりにある。つねに油断してはならない。ことに「世間」の道徳を第一として、神仏をまつるべきである。これが、わが国の風俗というものだ、ということである。

そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもるこの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。

・・・西鶴の作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66

 

「世間体」の構造社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X

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西洋の歴史、哲学を語られるとき、キリスト教と切ってはきれないことは常識だ。しかし日本人を語るとき仏教との関係が語られることが少ないのは何故だろうか。日本人を分析するときでさえ、西洋哲学や、西洋心理学で語られるのはほんとに滑稽だ。そしてほんとに多くの日本人分析の滑稽本が作られて来た。簡単には西洋中心主義のドグマに捉えられた日本人。明治時代以降いまにいたるまで。

しかし本質は決して乗っ取られてはいない。国難となれば作動するのは世間倫理。そして世界で最も日本人に批判的な民族は日本人。ここに仏教の無我が流れている。そして同調圧力の源泉。その否おいて決して満足せず止まらず、勤勉に進み続ける。

 

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大乗仏教の根本原理を「即非の論理」と呼んでいる・・・例えば、「世界は即ち世界に非ず、是世界なり」、また「微塵は即ち微塵に非ず、是を微塵と名づく」等である。これを一般的な形式に引き直すと、「甲は甲であると言うのは、− 甲は甲でない、故に甲である」という方式になる。・・・肯定が否定で、否定が肯定だということになり、普通の論理ではとうてい承認され得ない非合理であり、常識外れも甚だしいと言わなければならない。それにも拘わらずこの即非の論理が、仏教的思惟の根本なのである。

仏教では、物の本然、物の真実或いは物の「在りのまま」の存在を「如」或いは「如々」と呼んでいる。即非の論理は、定立(肯定)されている概念をいったん否定し、この否定を経てもう一般肯定に戻ったときに初めて、その概念に対応するところの物が真実にとらえられると言うのである。

 

「日本的霊性」 鈴木大拙 ISBN:4003332318 P257-258

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