なぜ「思春期セカイ系」なのか。

pikarrr2005-07-27

思春期セカイ系


2ちゃんねる哲学板にいると、自分の不安を世界の不完全さと短絡させ、「世界が間違ってるから、悪いから、正しいボクは苦しくなる」的な言説の人が多々来る。思春期という、経験よりも知識(理想)が多いアンバランスな時期に、「なんで大人はこんなこと簡単なことがわからないのだ!」的なある種の全能感をともなってあらわれやすい。特に、引きこもり系の人に多いように思う。ボクはこれを「思春期セカイ系と呼んでいる。

「思春期セカイ系を内部/外部の構造として考えると、内部という自己と外部という社会の間に境界を引き、社会悪を外部の問題へと解離させる。自分とは関係がなく、自分は完全な部外者なのに、災難を振りかけられるという、被害者の位置におく。この完全なる被害者の位置に立つことによって、完全なる被害者という「短絡」は成立する。それが、自分の不安を解消するためのトリックがある。

このような「思春期セカイ系」に対して、社会悪には、完全な部外者、被害者はいない。だから単に社会悪のみをあげつらい、さらに被害者を装う、遠巻きにものいう言説には注意が必要だ。だから、社会悪を指摘するときには、その彼がその問題に内部としてどう向き合っているかが、重要になる、ということができるだろう。




マスメディアという完全な部外者


これにはテレビの影響も無視できないのかもしれない。マスメディアの本質は、絶えず外部から対象を観察ことにある。たとえば極端にはビルから飛び降りる人がいても、その人を説得するような事件の内部に係わるのではなく、外部にいてカメラを回し続けるのである。(実際そうなのかは、しらなけど)そしてそこに内部の巻き込まれない「正義」がある。

さらにテレビは人を集めるという煽り体質がある。懸命に世界の問題、不安をさがしあて、放送し、より多くの人に見てもらう。そして問題は、煽り、注目を集めるように動くときに、マスメディア的な「正義」との差異において強調される。ここに自分を外部におき、問題を強調するという、潜在的な「思春期世界系」的な動作があるのではないだろうか。

迅速に、的確に情報を伝えるというマスメディアのもつ、このような傾向の是非については容易に判断でいないが、「思春期セカイ系」という内部は、このようなマスメディア的言説を内部として同期させている面が強いのではないだろうか。すなわちマスメディア的な部外者の位置として、マスメディアからの情報をもとに、マスメディアのような速度をもって、安易に、社会悪と自分の不安を短絡させていく傾向があるのではないだろうか。「思春期セカイ系」にのって、セカイとは、マスメディアの内部である。



思春期セカイ系という精神安定方法


このボクの言説自体も「思春期セカイ系傾向があることは、免れない。「思春期セカイ系の引きこもりは、どうしようもない。」というときにも、「思春期セカイ系の構造が働いている。そこに完全な外部は存在しない。

そしてこのような短絡は、苦しいときにだれもが用いる不安解消方法である。このような回避がなければ、問題はすべて自己の問題として見つめることは、できないし、自虐的すぎる。さらには、そして宗教や、哲学の魅力の一つも、自分の不安が人類の問題へと短絡できることにあるだろう。たとえば、デリダ脱構築の目的は、このような「思春期セカイ系的短絡を暴露し続けることである。しかしまたそれは神経症的すぎる、と言われるのもそのためである。




日本という「いい国」幻想の存続


たとえば、引きこもり、ニートなどは、内部という自己と外部という社会の間に境界をつくり、短絡する一方で、「ボクたちはみんな一緒の日本(内部)にすむ仲間じゃないか。みんな同じ平等というやさしさをもっているだろう。最後の最後では救済してくれるんだろう。日本ってそういう内部じゃないか。だから、なんとなく生きていけるだろう。」という社会という内部への強い依存が根底にあるのではないだろうか。そしてまたほとんどの日本人も、リスク化する社会の中で同様に不安感をもち、それを緩和させるために、漠然とした「いい国」幻想という、まなざし(コンテクスト)をもっている。

「思春期セカイ系」として、安易に内部/外部の短絡が可能としているのは、みながこのような「いい国」幻想を維持したいためかもしれない。引きこもり、ニートを外部に放りだしてしまうことは、すなわち自分たちも外部への剥き出しになることを意味する。だから引きこもり、ニートという存在は、日本がまだ「いい国」であり続けていることのフェイクとして、稼働させられているのかもしれない。そしてこのような日本という「いい国」幻想は現に危機に瀕しているのだろう。