「自由に享楽させろ」 享楽自由主義の時代
①「社会的」欲望と「脱社会的」享楽
強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術はそれを可能にしつつある。享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の場は広がっている。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど。
それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能である。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。
SMは社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。社会的に高い地位の人にSM指向が強いと言われるのは、社会性に対する反社会がその快感の原動力になっているからだ。しかしドラッグそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグへ向かうとき、はじめは「(社会的な)反社会的」イメージへの欲望があるが、ドラックの快楽は欲望を越えていく。それは外部への、「脱社会的」快楽である。ドラッグの快楽は、社会的な立場に関係がなく作用するのだ。これをぼくは「あぼーんする快楽」と呼ぶ。
②フロー体験が享楽の入口を開く
最近のコンピュータ技術はまた享楽への入口を開く。最近、「フロー体験」ということばがある。*1ゲームのような障害に熱中するときの快楽体験である。コンピュータ技術がフロー体験を生みやすいのはフードバックの速度向上を用意にするからだ。
トライ&エラーは一つのコミュニケーションである。たとえばおしゃべりの楽しさもその一つである。コンピュータ、あるいはネットコミュニケーションは発信に対する応答の早さによる反復継続の容易さがフロー体験を生む。ゲームにしろ、ネットコミュニケーションにしろ、言語世界の理解、コンテクストにより楽しめるが、それがフロー体験化したとき、享楽の入口が開く。
子供でさえコンピュータを触ることを喜ぶが、ここにフロイトの「糸巻き遊び」をみることもできるだろう。投げ、引き寄せる。フォー・ダーこれはコントロールする/される快楽であり、「快感原則の彼岸」、すなわち享楽の原初的入口である。そして「糸巻き遊び」、ゲーム、ネットコミュニケーション、ここにあるのは享楽(外部)への入口である。
③「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ
デカルトの「コギト」とは乖離、心身の引き裂かれの叫びである。問題は「疑う私」という身体から乖離した心にあるのでく、科学の発達により引き剥がされる身体側にある。人間という神に名指された特別性は科学により「物体」へと解体してみると、「動物」であり、「機械」であった。この恐怖を前に叫んだのが「コギト」だ。もはや「疑う私」があると宣言するしか、人間を救うことができない。ああ、神よ。デカルトの叫びである。
しかし「方法序説」(ISBN:4003361318)に書かれる身体の解体のリアリティを読むと、デカルトの恐怖の叫びは、また享楽への叫びであったのではないだろうか。デカルトの本当に言いたかったことは、「人間は機械だ」ということではないだろうか。「我思う故に我あり」とは、人類が「機械論の欲望」を見出した瞬間であったのだ。「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ。
そしてデカルトの末裔たちは、身体を徹底的に引き剥がしに必死である。「コギト」を消去することに躍起なのだ。それが科学の秘密である。「科学は客観的世界である」というときに、隠されているのが、「なぜ人びとは科学へ没入するか。」ということだ。それは、テクノロジーが享楽への入口を開く有効な手段であるためであり、それは「機械論の欲望」である。
④「コギト」という裂け目
デカルト末裔の繰り返しの努力、回帰し続ける「機械論の欲望」に抗して、「コギト」は溶解しないのか。なぜならデカルトが「動物」と呼び、「機械」と呼んだものはデカルトが考えるような「物体」でなく「言葉」であったためだ。
科学という「世界」は言葉でしかなく、そもそも存在しない。だから「コギト」もそもそも存在しない。そもそも存在しない世界の内部に、科学、世界とコギトの物語がある。そしてこの内部で「コギト」は内部の不完全点、「ゲーテル的消失点」としてある。デカルトの考えとは異なり、「コギト」は疑える。しかしデカルトが見つけた「コギト」は溶解しない。なぜならこの「世界」の裂け目であるからだ。
⑤「我」は行為、体験の極限で溶解する。
たとえば、デカルト末裔のマイケル・ポランニーは「暗黙知の次元」(ISBN:4480088164)で、「行為」について語っている。
ある人間による身体の巧みな動作は、別な人間が認識できるリアルな存在である。しかもそれは、ただそれを包括することによってのみ認識できるリアルな存在なのである。また、このリアルな存在を包括する行為は、その行為の対象たる「動作」と類似の構造をもっている、と。P62
他のすべての暗黙知の事例において、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の構造は、一致する。P63
言語コミュニケーションは認識論であり不確実であるが、そこにある「動作(行為)」は存在論的な次元を開き、リアルである。たとえば、相手の「動作(行為)」を見て認識するのではなく、技の伝承のように、体と体のコミュニケーションによって、認識を越えた身体的に「同期」する。そこに主体と客体と要素とした高次の統合(創発)が生まれる、というようなことだ。行為、体験の極限で「我」は溶解する。
すなわち科学は言語であり、「我」を溶解しない。むしろ「機械論の欲望」はどこまでも「我」という裂け目を開き続けるが、科学的テクノロジーの「体験」が享楽の入口を開くのだ。
⑥享楽の時代
たとえばパーソナルコンピュータはそもそも必要とされなかったものと言われる。それはケータイなどネットコミュニケーションもしかりだ。これらは過剰なものである。現代は、ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなどの享楽の拡大によって、内部(社会)が拘束的に感じ、「脱社会化」を目指す傾向である。
ポランニー的な「暗黙知」の創発性において、技の伝承のような場において、「我」は溶解し、他者への「同期」としての享楽が入り口を開く。しかしテクノロジーの「フロー体験」は、機械と「我」という閉じた関係の中で、享楽の入口を開けることを可能にしてしまう。
しかしここにはまだ「行為」の反復が介在している。さらには、テクノロジーは「行為」の反復さえ必要としない、ドラッグのような直接、器質へ介入する方法、たとえばサイボーグ化、遺伝子改良など、目指されている。というような「享楽の時代」へ向かっている。
⑦「自由に享楽させろ」
ボクは、このような意味で、最近のネオリベラル(ネオコン)の潮流の下層にはインターネットの増殖という要因があるといい、これを「ネットの欲望」と読んだ。*2「ネットの欲望」とは、デカルトの「コギト」以来、回帰し続ける「機械論の欲望」の新バージョンである。
最近のネオリベラル傾向、自己責任論、構造改革、「小さな政府」は、反社会的な自由を求めるというよりも、社会の「脱社会化」傾向から来ている。すなわちそこにイデオロギーなどない。このようなネオリベラル傾向、自由競争社会は当然、格差を生むが、「脱社会的」な享楽の次元には、下流になろうが関係がない。そこにあるのは、「自由に享楽させろ」ということだ。
享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による「我」の溶解である。当然そこでは社会、勝ち負け、あるいは生死さえ溶解される。下流であろうが、社会的な拘束から解放され、「自由に享楽したい」、ということである。そして「サイボーグの欲望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、「ネットの欲望」のあとも、「機械論の欲望」は回帰し続けるだろう。
⑧二重構造
ネオリベラルの下層構造に「ネットの欲望」があり、「脱社会的」な享楽を容認する。権力は享楽を管理するからだ。それが生権力であり、環境管理権力である。東浩紀は、環境管理権力を対応させた二元論、「解離的近代の二層構造」を示している。
主体(内面)の自由(コミュニティの層)・・・複数のコミュニティ(相互無関連化・島宇宙化)
多様な価値観の共存、コミュニタリアン、多文化主義、
規律訓練型権力の作動域、市場の論理が支配
身体の管理(アーキテクチャの層)・・・単一のアーキテクチャ(都市・交通、市場、コード)
価値観中立なインフラ、リバタリアン、メタユートピア、
環境管理権力の作動域、セキュリティの論理が支配
もしかしたら「まつりごと」としての政治は残るのかもしれない。そして僕たちは相変わらず、政治家のスキャンダルや派閥争いを注視しているのかもしれない。しかしそれは、mixiで友人の日記を読み、ワイドショーで有名人のうわさ話に耳をそばだて、サッカーでナショナルチームの勝敗に一喜一憂するのとあまり変わらないレベルの現象になるだろう。というより、僕たちはそのような脱政治的な社会を目指すべきだ。社会秩序の運営をひとつの閉鎖的なコミュニティに全面的に委託してしまう(間接民主制というのはそういうものだ)のは、単純に危険だからである。これは二層構造論の積極的帰結のひとつである。
「戦争」「暴力」の問題はどうなんだ、という反論がありうるかもしれない。・・・これに対する僕の答えは、今後の社会秩序は友敵の区別を必要としない環境管理型権力によって維持されるはずで、それは実際にセキュリティの全面化というかたちで試みられている、というものである。・・・僕は、情報技術を駆使すれば、セキュリティの確保を友敵区別の再構築から引き離すことは、可能なのではないかと思う。というよりも、環境管理型権力の概念は、まさにそういうものとして考えられている。
解離的近代の二層構造論東浩紀 http://www.hirokiazuma.com/archives/000194.html
解離的近代の二層構造論2 http://www.hirokiazuma.com/archives/000195.html
ボクは、デカルトの心身二元論的構造を「内部と外部」と呼ぶ。享楽は内部から外部へ断絶を乗り越える試みである。東によると、もはや内部(主体(内面)の自由)は曖昧なシミュラークルである。だから内部の一部による管理も、多数のコミュニティの闘争も意味がない。外部(身体の管理)の単一なアーキテクチャを管理すること、環境管理権力を目指す、ということだ。この単一性は、いままでのように単一のイデオロギー、コミュニティではない。それは外部であり、主体性、社会性もない「脱政治的な社会」、グーグル的表現をすれば「人間を介さない」社会である。
ボクがこのような「単一性への還元」をなんとと呼ぶかおわかりだろう。「機械論の欲望」である。人々は自由に享楽し、権力は生として管理するというユートピアである。
⑨うつろう「社会(反社会)的」主体と生成する「脱社会的」享楽
物語はそう簡単におわらないだろう。享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による「我」の溶解であるが、これは単にドラック中毒のような快楽に溺れる廃人ではない。仮に享楽によって「我」が溶解しても、「生の力」であり、生成が残る。
たとえば、2ちゃんねるの祭りとは一つの「享楽」の形態だろう。ポランニー的に、言語による認識論から「動作(行為)」の存在論的な次元の開示であり、遠隔でありながら、興奮として身体間のコミュニケーションからの「創発性」が生まれている。このウィルス群を環境管理権力によって単一性へ還元することはできるだろうか。
享楽に近接しても、そう簡単には、「我」の消失しないだろう。「ネットの欲望」のあとも「サイボーグの欲望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、「機械論の欲望」は回帰し続ける。享楽の時代とは、うつろう「我」と動的な「生成」が共存する。「社会的」な主体が、2ちゃんねるで「反社会的」な発言をし、そして「脱社会的」に祭りの享楽に興じるといような、より複雑で、管理が厄介な時代である。
*1:続 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050624
*2: Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060214