なぜ創造は可能なのか 超越論的「言語ゲーム」システム
「なぜ「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」は心身二元論を要請するの」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070202で示した「超越論的「言語ゲーム」システム」を改訂する。
1) 言語ゲーム(学習Ⅱ)
人はゼロ学習、学習Ⅰは不可能であり、コンテクストを読み込もうとする学習Ⅱからスタートする。言語ゲームは、共同体というような大きな概念であり、内部には流動的なコンテクスト(文脈)が存在する。しかしコンテクストは決定不可能であって、「断絶」が存在する。動物や機械のようには正確な行為(ゼロ学習)はできないのである。
このような「断絶」はフリーズを引き起こすために、「前のめり」な欲望による超越論的な同期、すなわち「みんながしているから」という「せき立て」によって、「命がけの飛躍」が試みられる。「断絶」において短絡しつづけ「差延」する。
2) 事後的な「規則」化(学習Ⅰ、ゼロ学習)
「言語ゲーム」内の行為の反復の中から、学習Ⅰ的なコンテクストと規則が見いだされる。さらには外部記憶化されることで、ゼロ学習化される。これが数学や科学法則、我々の生存を確保する強固で快適な建造物、様々な社会システム、そして規則、法などである。そしてこれらは超越論同期という「みなが信じているから信じる」という無意識の安心に支えられている。
3) 創造と破壊(学習Ⅲ)
学習Ⅱの反復の中で、コンテクストに再帰的になり、受動的なコンテクストのズラしとしての差延ではなく、能動的なコンテクストのズラとしての「脱構築」が行われる。これは、ニーチェも指摘したように「遊び」であり、創造であり、発想の転換である。
創造とは(既存の安定の)破壊である。その「破壊」が生産的的なものであるか、非生産的なものであるかは、事後的にしか決定できない。このような「遊び」という創造と破壊が、言語ゲーム(学習Ⅱ)にダイナミズムが生んでいる。
創造はいかにして可能なのか
しかしこのような意図的なズラしは、なぜフリーズせずに行われるのか。すなわち創造はいかに可能なのか。
柄谷が「命がけの飛躍」を説明するときに、マルクスの共同体と共同体の間に貨幣交換は始まると例にだすとき、このような「創造」が想定されているだろう。たとえばシェークスピアの「ベニスの商人」に示されるように、従来の共同体では、贈与互酬、再分配によって「交通」は行われ、、貨幣交換を元にする商人とは下等な守銭奴であった。だから共同体と共同体の間に始まるとは、「交通」の彼岸であり、禁止(タブー)にはじまった。
ラカンの欲望論では、意図的な「命がけの飛躍」はフロイトの「快感原則の彼岸(死の欲動)」と重ねられ、享楽といわれる。「言語ゲーム」内の超越論的な同期は決してゼロ学習のような完全な同期を可能にしない。そのために人は満足を求めて、彼岸(禁止)を目指さずにはおれない、と説明される。
貨幣交換と同様に創造は「言語ゲーム」の彼岸(禁止)で始まる。いつの時代もほんとうに創造的なことは既存の破壊であり、反対され、禁止される。
ここで重要な点は、それはあくまで共同体の外ではないということだ。当事者にとっては、「言語ゲーム」の延長上に満足を目指した結果として、創造は行われる。そこには、やはり「前のめり」な欲望による超越論的な同期が働いている。
たとえば「遊び」は、「ほらできたよ」というような(超越論的な)他者に褒められるように行われる。創造とはそのようなものである。たとえばブログが金銭的な報酬なく書かれるように・・・
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