なぜそれでも中国製品を受け入れていかなければならないのか。
「中国製冷凍製品」パニックの形而上学
たとえば以前、東海村で原発事故があったときに、オーストラリアからの留学生が母国へ帰ったというニュースがありました。彼は九州あたりの大学に留学していて、日本での原発事故のニュースを聞いた彼の母親が避難するように指示したということでした。
日本人にしてみれば、東海村と九州は遠く離れてことがわかりますが、オーストラリアの母親は、「日本」/「中国」ぐらいの差異で認識して、「日本」ということで一つのものとなっているのでしょう。
これは一つの笑い話ですが、たとえば最近の中国製冷凍商品の事件についてはどうでしょうか。日本人は「中国製品」/「日本製品」という差異によって、排他的なパニックが広がっています。
ニーチェは人にはこのように同一化する認識上の特性があることを指摘しました。そしてデリダはこのような差異化を形而上学的な二項対立と呼びます。そして「他者性」という倫理的な概念によって、このような対立を解体(脱構築)して、他者を受け入れことを要望します。すなわち「中国製品」/「日本製品」という差異ではなく、もっと日本人が日本を知るように、中国の多様性を知る努力をすることです。
アイデンティティと他者性
これは、最近のネットウヨク傾向でもいえます。そこには日本/韓国という形而上学的な二項対立が働いています。しかし不思議なのが、ネットが発達し、韓流ブームなど、情報が活発に行き交い、互いにより知り合う状況にあるのに、ネットウヨが広がっています。
すなわちこれは単に情報量の問題ではないということです。ここにはより互いに近接するほどに、反作用的に排他する原理主義的な傾向があることを示しています。日本人にとっての「日本」はある特別性を持っています。日本/中国/韓国などの差異が解体されていくような状況だからこそ、その反動として「日本」という意味を死守しようとするような反作用が働いているといえます。
日本/韓国の差異を解体することは、自らが日本人であるとというアイデンティティを揺るがせる自体であるからでしょう。これは、先のオーストラリア人の親が単に情報不足で、もっと日本を知ればよいということに対して、やっかいな状況です。
日本人であるというようなアイデンティティを持つことは悪いことではありませんし、自らに誇りを持つことはむしろ良いことです。その上で「他者」を受け入れるというのは、単に知るという以上に難しい問題です。
「悦ばしき知識」への覚悟
グローバルな世界では、食料に関しても中国へ依存せざるおえませんし、もはや中国と日本の密接な結びつきは解消することはできません。それは近接することで必然的に起こってくるだろう摩擦です。
中国製冷凍商品の事件についていえば、これをより深く知り合い一つの機会とするということでしょう。そして「中国製品」/「日本製品」という対立を解体し、他者を受け入れる。この脱構築は単に知るということだけではなく、ニーチェのいうような「悦ばしき知識」への覚悟をもつということでしょう。
逃げられない境界を前にしたニーチェの最も大胆な洞察は、おそらく、無知への意志への勧めであろう。・・・「愉快な知恵」−悦ばしき知識−と名づけられ、自らの活動を「真」「善」として受け入れる自己保存的解釈の連鎖にとっての最大の脅威とみなされる。
「人間の頭上には、その最大の危機として、狂気が突発するおそれが、たえずゆらめいていたし現にゆらめいている−それは、感ずる・見る・聞くなどにおけるいい加減さの突発、精神のふしだらさの楽しみ、人間の非常識の悦び、等である。狂人の世界に対立するものは真理と確実性ではなくて、むしろある信念の普遍性と一般的規範力である。つまり判断上の恣意がゆるされぬということである(ニーーチェ)」。
無知、愉快な知恵への意志は、また不確実性を喜ぶ覚悟、これまで有効に見えたかもしれないあらゆる価値の転倒を喜び、それを意図的に望む覚悟もできていなければならない。
この絶え間ない危険の引き受けは、デリダがしばしば論じる、ニーチェにおける肯定的戯れである。・・・このあやうい「忘却」「能動的忘却」は、デリダがニーチェの超人に関して強調するものである。
「デリダ論」 ガヤトリ・C・スピヴァク (ISBN:4582765246)