なぜテレビは真実を開示するのか ハイウェイ論2

pikarrr2008-05-07


ハイウェイ化のための高度な管理技術


歴史的にみて、定価で商品を買うというのは、とても珍しいことだと思います。商品購入の基本は市場(いちば)的なものです。そこでは「もうすこし負けて」「おまけして」のような価格交渉というコミュニケーションが基本です。

たとえば日本でも、家電製品などの高価なものは店員との交渉が行われます。だから食品購入でも価格交渉が行われてもよいのでしょうが、高価な商品ならば、交渉するだけの店員を配置する人件費が捻出できますが、日用品のような安い商品では難しいので、その分を割引のような形で還元されています。だからスーパーによって定価からの値引き額異なります。しかし市場(いちば)では、実際に日用品でも交渉が行われているのです。それがむしろ歴史、世界的にいまも多数でしょう。

売り手は少しでも高く売りたいし、買い手は少しでもやすく買いたいのが基本です。さらにそこに継続性によって信頼関係が生まれます。いつも買ってくれるからおまけする。いつも良いものを提供してくれるから贔屓にする。貨幣交換社会といっても、実は多くの贈与関係が介入しています。売り手と買い手が1度限りの等価な交換をおこない、そこに負債感も、贈与感も生まれないような純粋な等価交換はとてもめずらしいでしょう。

だからこのような定価販売を可能にするには、商品が標準化され、価格統制がとれ、それがより多くの消費者が利用するというかなり高度に管理されたシステムのもとでないと成立しません。そして厳密な意味で、定価を重視したのは、近年、コンビニや、ファーストフードの普及からでしょう。コンビニ、ファーストフードでは、市場(いちば)などのように店員と直接価格交渉はできません。これはコンビニの店員に価格交渉の責任を持たせられないということではなく、積極的に純粋な等価交換がめざしているからです。

自販機と価格交渉ができないように、店員は機械なのです。店員が機械となり、客へ干渉しないことがコンビニ、ファーストフードの魅力なのです。価格交渉や継続したつながりなどを排除した他者回避の場を提供することで、客はくつろぎと安心を感じます。深く考えずにただ道を進めば、ある程度の満足した結果に到着するというハイウェイ化があります。




「展示的価値」とハイウェイ


たとえば美術館、博物館、動物園もハイウェイです。そこに行くことで正しいものへと高速で通ずる通路(ハイウェイ)なのです。美術館ならば、正しい美術品であり、動物園ならば正しい動物の姿があります。

これを可能にする一つの原理が、人を対象と関わらない<観察者>の位置におくという認知主義によるものです。まずはじめに正しい状態が顕現化されており、あとはそこに到達する意味(真実)が説明されます。このようなハイウェイ化されることになれているボクらはこれが当たり前のように思います。

実際に世界は行為系です。たえず行為し、環境と関係し続けることで連続的に世界が現れ、結果とは遂行したある時点の認知的な描写でしかありません。たとえば価格交渉とは一つの行為ですが、それに対して、標準価格は最初にすでに(貨幣価値による)描写が行われて、それが交渉する必要のない正しいものとしてあります。美術品も多くの美術品と触れる中で、感動するような作品に出会うはずが、美術館ではすでにこれがすばらしいと提示され、鑑賞します。

ベンヤミンは、美術館を「礼拝的価値」から「展示的価値」への転換を芸術作品のアウラの凋落」と、指摘しましたが、「展示的価値」もまた認知主義です。美術館がハイウェイとして機能することで、新たな形而上学が現れます。多くの<観察者>のまなざしを集約することによって、真実を開示するということです。ここには確かにベンヤミンがいうような作品のアウラは消失しているかもしれませんが、ハイウェイの存在が「真実」を生み出します。

たとえばデュシャンがただの便器を展示したときに暴露されたのは、美術館が生み出す「正しさ」形而上学です。正しいものが展示されるのではなく、展示されるから正しいのだという脱構築です。

しかし「展示的価値」においては便器のような複製品であってもなんら問題はありません。むしろハイウェイでは、「真実」を解体するようなイベント化(「ショックの経験」)されたダイナミズムこそが重要となります。なぜならさらに人々の注意を引くことで多くの<観察者>のまなざしが集まるからです。

奇妙にも彼(ベンヤミン)は、このアウラの凋落」によって結果的に「対象が文化的外皮から解放」されたり、その瞬間から政治的な実践に基づくようになったりするのではけっしてなく、むしろ、新たなアウラが再構成されてしまうことに気づいていなかった。・・・複写可能になることで芸術作品の真正性は放棄されるどころか、芸術作品は逆に、・・・感性的な美の顕現が生じる空間となる。

彼(ボードレール)は、文化の伝承不可能性そのものを新しい価値に転化し、芸術作品自体のただなかでショックを経験させることによって、この課題を成し遂げたのである。ショックとは、ある特定の文化秩序のなかで事物がもっていた伝承可能性や理解可能性が喪失するときに、事物が帯びることになる軋轢の力である。・・・異化価値を生み出すこと、それは現代の芸術家に特有の課題となったのである。この課題こそ、文化の伝承可能性の破壊にほかならない。P157-158


「中身のない人間」 ジョルジョ・アガンベン (ISBN:4409030698




経済的リベラルの交通様式


現代の究極的なハイウェイはテレビでしょう。強引な取材など、テレビであれば、なんでも許されるという傾向があります。テレビカメラの前とは、数千万人の<観察者>の視線が一点に集中するという極限的な状況があり、まさにそこが「真実」は開示される場所だからです。そこに開示されることが「真実」なのです。

しかしテレビは、宗教のように、「これが真実である」という形をとりません。テレビは一度開示された真実を、次々と裏切りつづけること(ショックの経験)、すなわち暴露することが本質です。裏切るような活発な代替によって、「平等への感覚を発達させつつ」より多くの<観察者>のまなざしを集めて、「真実」を開示し続けるのです。

だから「展示的価値」では、「真実」が何であるかよりも、動員を安定して通行させることが可能な高度な物理的なシステムが重要になります。「ハイウェイ」とはメタファーではなく、実在する物質的な通路です。ある真実があり、そこに向けてハイウェイが敷かれるのではなく、ハイウェイが敷かれることで真実が開示されるのです。ハイウェイは経済的なリベラルの下部構造としての交通様式なのです。

一回性と耐久性が、絵画や彫刻において密接に絡まり合っているとすれば、複製においては、一時性と反復性が同時に絡まり合っている。対象からその蔽いを剥ぎ取り、アウラを崩壊されることは、「世界における平等への感覚」を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、この知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを奪い取るのだ。・・・大衆にリアリティーを適合させ、リアリティーに大衆を適合させていく過程は、思考にとっても、限りなく重要な意味をもっている。


「複製技術時代の芸術作品」 ヴァルター・ベンヤミン (ISBN:4006000197

ここに二つの事実が見られる。第一に、生産諸力が諸個人から引き剥がされたまったく独立のものとして、諸個人と並ぶ独自の世界として、現れる。このことの根底にあるのは、諸個人の諸力こそが生産諸力であるのに、彼らは分裂して相互対立の中で生存していること、ところが他方、この諸力は彼らの交通と関連の中でしか現実的な力とはならないということ、


ドイツ・イデオロギー マルクスエンゲルス (ISBN:4003412435

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