なぜアニメは成熟した喪失感を描くのに適しているのか 映画「スカイクロラ」
映画「スカイクロラ」
遅まきながら、映画「スカイクロラ」(ASIN:B001NAW2MK) http://sky.crawlers.jp/tsushin/をDVD鑑賞。小説など事前の知識なく見たら、噂と違って?かなり楽しめました。平和を維持するために続けられる戦争。そしてその戦争のために生きるパイロットたち。大人になることがなく、戦死しても再生される。すなわち戦争劇のために永遠にいきることを強いられる。
"彼ら"の不思議はなぜ働きつづけるのか。ある意味で彼らは充足しているのでしょう。大人にならないこと、空を飛び戦うこと、また生き返ること、そして自分達の社会的な役割を。そこには、生きることの喪失感の第一段階である苦悩し自分探しをする青春ドラマではなく、もっとさめたアイロニカルなドラマがある。それはどこにも行き場かないことを受け入れるところからはじまる。
生きることの喪失感を描かせたら、現代では日本人の右に出るものはいないですね。それは80年代以降、日本が豊かさの中で生きることの喪失感について成熟させてきたからでしょ。いまや日本の優良輸出品の一つと言えます。だからその手の作品は大量に生産されていますが、日本人なら誰でも描けるものではない。良質なものは一握りです。押井守が良質なものを作れる一人であることを再確認しました。
「成熟した喪失感」とアニメーション
たまたま、アメリカ映画「イントゥ・ザ・ワイルド」(ASIN:B001O01SGU) http://intothewild.jp/top.htmlもDVD鑑賞しました。親とのいざこざから一人放浪の旅にでる青年。いろいろな人々との出会いがあり、最後に彼が向かったのはアラスカの荒野。そこで誰とも接触しない生活を送る。やがて彼は人のつながりの大切さにめざめて、街にもどることを決意するのだが、自然がそれを拒み、彼はほんとうに荒野に取り残されて、一人病に倒れ死んでしまう。
実話の映画化ということで、作品の評価も高いらしい。たしかにまあ面白いのですが、やはり「自分探しの青春ドラマ」では物足りなさを感じてしまう。
それとともに表現方法の違いがあるとも思いました。実写ドラマは人間味がですぎて、「成熟した喪失感」を表現しにくいのかもしれない。それに対してアニメーションはすでに一つのアイロニーを生み出している。すなわちどんなに深刻に描こうが、しょせんマンガなんだよというパロディさが残る。そのことが逆に実写ドラマの「臭さ」を隠す。これは日本のアニメがもつ構造的な効果かもしれません。
村上春樹作品を実写にすると必ず失敗するでしょうがアニメならば成功する可能性がある。「海辺のカフカ」(ASIN:4101001545)など良いのではないでしょうか。あるいはオタクが二次元に感じる「リアリティ」もここに関係するのでしょうか。このように「成熟した喪失感」とアニメーションが日本の優良な輸出品として成功していることには、互いに深いつながりがあると思います。