なぜ数学は変態行為なのか  自然信仰から自然主義への飛躍

pikarrr2012-02-21


ソクラテス「われわれがいましがた、完全な哲学者となるために必要な資格として要求したような諸条件を、全部残らずそなえた自然的素質というものは、人間たちのなかにきわめてまれに、少数しか生まれてこないということ、この点は、すべての人がわれわれに同意するだろうと思う。

・・・そういう自然的素質の持前としてわれわれが誉め讃えたものの一つ一つが、それをそなえた魂を堕落させ、哲学から引き離すという事実がある。ぼくが言うのは、勇気とか、節制とか、その他われわれが挙げたすべてのもののことだ。

植物にせよ動物にせよ・・・そのすべての種子、あるいはそれから生じるものについて、われわれは次のような事実を知っている。すなわち、もしそうした種子が、それぞれに適した養分や、季節や、場所などに恵まれなかった場合には、それが力強いすぐれた種子であればあるほど、それだけいっそう多く、自分が本来必要とするものに不足することになる。なぜならば、悪いものは、善くないものに対してよりもむしろ善いものに対してこそ、つよい反対関係にあるからだ

・・・われわれは魂についてもこれを同じように、最善の自然的素質に恵まれた魂は、悪い教育を受けると、特別に悪くなると言うべきではないだろうか?」P40-41


国家 下 プラトン (岩波文庫ISBN:4003360184  




プラトンの職の国家論と日本人の職の大系


プラトンの理想的な国家論は職業を中心として設計される。日本人の「職の大系」は全く違う。プラトンの理想的な正義の「国家」の始まりは、人にはそれぞれ生まれ持っての得意不得意がある。それぞれが得意な職に特化することにはじまる。自然は生まれに根ざす。「生まれもって」の得意不得意をもとに、大系が作られる。ここが自然主義的な形而上学

しかし日本人の職の大系は、生まれついた場所によって職は固定される。農民の家に生まれれば農民となる。そこには「生まれもって」という考えはなく、生まれ落ちた家が重視される。重要であるのは生まれ落ちた慣習に組み込まれること。そこには漠然とした農民の子供は農民というような「生まれもて」が隠されているかもしれないが、強くない。あくまで土着と調和する自然信仰に根ざしている。

日本人もプラトンも自然をその根底におくことは同じだ。だから教育を重視する。人は慣習が重要であり、その中で人は正しく育つと考える。しかしプラトンは、それ以上に生まれによる「自然的素質」を重視する。生まれる前にすでに絶対的な正しさがある。それがイデア論につながる。慣習はイデアをより汚れなく育てる過程である。この形而上学自然主義を信じるにいたるのは数学である。数学は人間を超越し自然に組み込まれた正しさである。日本人は自然信仰だがこのような形而上学自然主義はない。




自然信仰から自然主義への飛躍


プラトンは自然信仰から自然主義への飛躍である。宗教で言えば、土着の自然信仰から、キリスト教などの一神教への飛躍にそのまま、対応する。自然主義は自然が形而上学へと抽象化する。結局、この構図は、科学、啓蒙主義社会主義でも同じである。ギリシア哲学では、この抽象は、ピタゴラスの実働算術から数学への飛躍にはじまるといわれる。プラトンピタゴラスの影響によって思考する。土着の自然信仰から、キリスト教などの一神教への飛躍に、このギリシア的な飛躍が取り入れられて、神学へなっていく。

このような自然主義がどのように生まれたのか。一般的に考えるのは慣習が固まったということだ。自然との長い調和の中で、自然から法則性を見つける。法則性を支えるのは、同じ条件において同じことが起こるという自然の恒常性である。

しかしことはそう単純ではないように思う。それは東洋をみればわかる。中国、日本では高度な経験技術が発達したが、それが抽象化することには熱心ではなかった。ピタゴラスの例を取れば、彼が慣習から生まれる経験技術を抽象化したとすれば、それは神秘主義を介してであった。すなわち、経験技術を抽象化して数学や幾何学を取り出す行為はとても、奇妙なものなのである。それは、決して実用的なものではなく、神の世界に触れる、とても宗教的神秘的な体験であった。そのような神秘的な体験としてのみ可能であった。そしてエクスタシーだった。神聖なものへ触れる快感体験として、自然主義は生まれた。




数学という変態行為


自然信仰から自然主義信仰への飛躍とは、自然とは多様な神が住み慣習的に語り合う世界ではなく、神が書いた精確な記号でできた世界であり、選ばれもののみが読み説く快感を感じることができる。結局のところ、ピタゴラスが発見し、そしてプラトンが広めた自然主義信仰は、まったくいまもボクたちに継続している。

現代人には当たり前となった抽象化すること、それは異常性である。数学はあまりに隠微でおどおどろしい変態行為であるということ。プラトンは取りつかれてしまった。「国家」全体から浮かび上がるグロテスク、気持ち悪さこの異常性こそが現代の病そのものである。

ウィトゲンシュタインが数学も一つのローカルな言語でしかないことを明らかにしたあとでも、ボクたちは変わらず、自然の「真実の言葉」を探し求めている。そこにある神秘。なぜ数学(物理学)は世界を記述することができるのか・・・



A・N・ホワイトヘッドの有名な表現によれば、西洋哲学史は、要するにプラトン哲学に対する一連の脚注にすぎない。宗教思想の歴史においても、プラトンは同様に重要であり、古代後期、とくに四世紀以降のキリスト教神学、イスマーイール派の霊知、イタリアのルネサンスなどはすべて、程度の差はあるもののプラトン派の宗教的なヴィジョンの痕跡をとどめている。

プラトンが、ときにはイデアの世界を現実の世界のモデルとして語り、またときには、感覚的現実の世界がイデアの世界に「参与する」ことを認めたりしたことは問題にならない。しかし、この永遠のモデルとなる世界がいったん正しいものと仮定されれば、人間がいつ、どうやってイデアを知ることができるのかが、説明されなければならない。プラトンが、魂の運命に関する「オルフェウス派的」、ピタゴラス派的理論を踏襲したのは、この問題を解決するためにほかならない。・・・みずからの体系にあわせて、魂の輪廻と「想起」(アナムネーシス)の理論をとり入れた。

プラトンは、知ることは、要するに思い出すことに帰着すると考えている。地上での生と次の地上での生とのあいだに、魂はイデア観照し、純粋で完全な知識にあずかる。しかし、転生の過程で魂はレテの泉から水を飲み、イデアを直接観想することによって得た知識を忘却する。しかしながら、この知識は転生した人間に潜在化しており、哲学の働きによってよびもどすことができる。P265-266


世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫ISBN:4480085637


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