なぜ日本人にお墓は大切なのか  釈迦の非情

pikarrr2015-12-18

古代インド思想と釈迦の無我論


インド思想で言えば、前1.5〜1千年のアーリア人の侵入以来、バラモン教があり、その形而上学ウパニシャッドがある。その時点で、のちの仏教の基本的な要素、輪廻、解脱 無常、皆苦はある。ただしバラモン教の基本にカースト制度があり、解脱できるのはバラモンという最上の祭司階級のみ、人々は呪術を操るバラモンを通して神々に祈る。

それに対して、前5百年頃から、信仰の民主化が始まる。解脱できるのはバラモンだけではないとして、人々が解脱する方法が考えられる。釈迦もその一人だった。

ここで考えられたのが、解脱のための我(アートマン)のあり方だ。例えば西洋の理性主義に近い、良心的な真の我をめざすという考え方が主流だった。その中で釈迦の特徴は、無我論にある。「これが真の我だ」と考えた時点で、とらわれており解脱できない。我々が認識できるのはすべて真の我ではない。「〜が我だ」と考えないところに解脱はある。




正しい理法(ダルマ)をみんなで目指す


無我論だと、相対主義に陥るように思う。なにを言っても、それは違う、となるわけだ。その時代は、国家主催の哲学大会が大流行で、みな名をあげようと参加した訳だが、釈迦は参加なかった。

釈迦は、形而上学を語らなかった。無我論では「真の我とは〜だ」と形而上学を語ることはできない。だから他派との論争もしなかった。論争することがとらわれである。

しかし、「我(アートマン)がない」とは言っていない。釈迦が強調したのは、理法(ダルマ)だ。生き物には正しい理法(ダルマ)があるといった。一人修行し、そこに達することで解脱する。

では、理法(ダルマ)とはなにか。理法のヒントとして釈迦が言ったのは、平等と俯瞰だろう。平等は階級、さらには男女も、さらには神も含めた生けるものすべてが参加するゲーム、それが輪廻からの解脱だ。

ここに俯瞰志向が働いている。例えば、子供を失って悲しむ母親に、同じように悲しい思いをしているのはあなただけではないと説く。さらに人は苦しいのは存在として無常、皆苦から来ている。だから欲を捨て、我を捨てたところに解脱はある。




中二病との違い


ただ俯瞰思考は、今では中二病でも使われる手だ。自らの卑近な問題を、大人が悪い、社会が悪いと、俯瞰して、責任回避する。この場合には、中二病者は自らを社会の外において、俯瞰して、好きなことをいう。

それに対して、釈迦は自らもその世界の一部であるとして実践する。実践という現実との関わりが大切なんだろう。社会が悪いから、私が足元から改革を進める。で、実践は口で言うほど簡単ではなく、他者とまみえて汗水流す。中二病者にかけているのはここだ。

釈迦は、解脱は一人で到達するものと考えた。だから布教をしなかった。みずから欲を遠ざけ、修行を続けた。しかし他者を拒絶しなかった。聞かれればアドバイスした。他派を排除もしなかった。いかなる方法でも、できるだけ、多くの人が理法に達すればすれば良い。




相対主義の問題


そうは言っても、相対主義に陥らずに、何かを担保するという点で、釈迦も苦労しているのはわかる。たとえば、仏教でよく言うのが、現世で悪いことをすれば、来世で地獄に落ちると言う。釈迦もこのようなことを言うわけだが、ここでの輪廻する主体とはなにものか。やはり我はあるのか、ということになる。これに対する一つの解答が、こう言わないとみんな悪いことするから方便でいった、というものだ。なかなかの苦し紛れだ。

まずもって、釈迦は解脱方法を実践・思考したわけで理論化、体系化したわけではなく、その場その場で改良を加えた。だからそれを体系化しようとすると、矛盾が生じる。このような問題が、次の大乗仏教の空思想など、新たな思考の課題につながっていたのだろう。でもこの問題はまさに現代思想でも問われている問題だ。




仏教の目的は、多くの人を苦しみから救う技術を提供すること


釈迦の一番は、多くの人を苦しみから救いたい。救済のいう結果にコミットすることだ。ごちゃごちゃ理屈こねても仕方ない。かといって、神に祈ること、意味なく苦行するのも否定する。欲を断った一人の瞑想、平等俯瞰思考による覚醒。我を捨て、世界の理法に到達しよう。

それはバラモン教の構造は維持しつつ、カースト制度の特権階級の既得権益としての宗教的権威、解脱を解放することへの実践でもある。

多くの人を苦しみから救う技術を提供する。これはいまの仏教も変わらない理念だろう。

諸行無常 世界(神を含めた生けるもの)は変わりづける
一切皆苦 だから存在として苦しい
諸法非我 我とは執着であり苦しみでしかない




中国仏教での儒教と仏教の融合


でも、日本人からすると、よくわからないのが、なぜインド思想はそれほどこの世界が苦であることを強調するのか。むしろインドは世界でも最古の一つに文明が育った季候も良く、作物も豊かな地域と思うのだが。

日本人は中国的ではないだろうか。中国思想は、この世界に執着する。死んでも、またここに帰ってくることを望む。親や友や子孫に会いたいと願う。だから中国仏教では、本来、インド仏教にはないお墓を作り、お盆などに魂が帰り再会することを願う。これを日本人も受けついでいる。日本人も生きることは大変ではあるが、この世界に、家族のもとに戻りたいと願う。

仏教では、この世界であった人、ことも、死んで輪廻で生まれ変わるときには、まったく関係がない。解脱する(涅槃にいく)とは個人ゲームだ。仏教の悟りのラディカルさは、親子、先祖などの身近な関係さえも相対化する。人類、さらには生きとし生けるものすべてが参加する個人ゲームだ。ある意味恐ろしく非情だ。

儒教の基本は、「孝」にある。親子の愛を基本として、それを上下関係や、仲間などに広げて、縦の関係性を構築する。釈迦の平等、俯瞰思考では、このような現世の関係は煩悩であり、克服すべきものである。釈迦の理法にあるのは、互いに無常・皆苦を生きる存在としての他者への慈悲だけである。




日本人にとってのお墓の重要性


中国に伝わり、儒教と仏教は融合した。どこまでも現実的でこの世界の関係を重視する儒教と、身体までも溶解する仏教。お墓、位牌、そしてお葬式は一つの結合点なんだろう。仏教的彼岸に行っても、もどって来られる目印。インド仏教ではそんな目印はいらない。死ねば死体は焼かれてただ川に流される。どこまでも一人、涅槃を目指す。過去への執着は欲望であり、解脱できておらず、涅槃にいけない。

お気楽な日本人は、涅槃とこの世を往復できると考える。いつもは涅槃でのんびり暮らし、お盆には子孫に会い来て、楽しく過ごす。なんとのんきな民族か。かといって、儒教の厳しい礼を守っているわけでもない。



参考 中村元選集15巻 原始仏教の思想 ISBN:4393312155

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