士農工商は縦か横か

士農工商は縦か横か


士農工商をどう捉えるか。左寄りは、士と農工商の縦関係を強調し、そこに西洋史観の搾取構造を見る。安丸良夫

右寄りは、士農工商の横関係を強調し、西洋差別史観とは異なる日本人的な共同体構造を見る。尾藤正英等

ボクは右寄りだから、共同体構造としての、慈悲であり、世間を重視する。そして武士というのは、西洋の権力者とは違う世界的に珍しい清貧な権利者層と見る。




倹約令という経済政策


倹約とは、精神論ではなく、経済成長を抑制する経済政策である。江戸時代の平安の中で、貨幣が浸透し、多様な商品が溢れて、市場経済が成長する。武士、商人はもとより、農民も特産品をつくり売るなど、市場経済に参入していく。

そしてインフレによって物価が上昇する。幕府等武士層の収入は、農民からの年貢が基本だったが、物価上昇に対して、米価はかわらないあるいは下落した。このために年々、耕地を開拓するなど、生産量は増加したが、武士層の収入は相対的に減少した。

物価に対して、米価が上がらない理由は、米の卸を特定の商人が独占して操作していたと言われている。現に吉宗は商人の米価操作対策を行っている。

しかし現代でもそうだが、経済成長を促進するのは、付加価値品である。たとえば江戸の庶民にもファッションの流行があり、小さなおしゃれを楽しむ。これに対して倹約令は、各身分によって、服装を規定するなどして、消費を抑えて、経済成長による物価上昇を抑え、相対的な米の価値の安定を目指す。

経済成長による富の増加は、商人層に回るとともに、農民にも回り、相対的豊かになったが、管理のない経済成長は不安定で、多くの破綻者を生み出す。一時期大儲けした商人も、次には破綻する。あるいは飢饉が起こると、商人は米を買い占めて、価格が上がるのを待つ。このために米の価格が高騰し、市場に出回る量も減ることで、貧しい農民たちに回らず、多くの餓死者をだした。江戸時代の飢饉は経済問題の面が強かった。




武士の清貧思想の限界


現代から考えれば、経済を成長させて国を豊かにすることを考えるが、そこまでの知はない。特に武士は農本主義を基本とする。特に商業による利益に積極的に関わることを汚れたこととし、商人からの税徴収も安定的には行わなかった。財政難の中で一時金として金を徴収したり、借金をして踏み倒したり。あくまで収入の基本は農民からの年貢である。

たとえば、市場経済を活用しようとした政治家に田沼意次がいる。そして優遇を得ようとする商人たちから多くの賄賂が集まり、当時から現代までも悪政として語られる。しかし彼も財政問題に取り組んだのであり、また賄賂が禁止されるような経済活動における権力者の倫理そのものが曖昧だった。その後、失脚して、新たな倹約政策が進められた。

このような武士による政治は、経済成長に対応できず経済的に破綻する運命にあったと言える。富は偏在し、幕府から各領国から財政難に苦しめられた。それは武士体制の弱体化を招いた。たとえば明治の廃藩置県で、各領主が簡単に領土を明け渡した大きな理由は行き詰まった財政難のためであったと言われる。

またなぜ幕末に薩摩藩が台頭できたのか。他と同様に貧困にあえいでいた中で、鎖国の中わずかに解放された長崎での貿易の独占権を手に入れることに成功した。これによって、幕府は大きな収入源を手放すことになるが、このような無頓着もまた武士が市場経済に対して消極的であったことを表す。これによって、薩摩藩は一気に収入をえて、軍備を強化し、その後、倒幕まで可能にする。



経済成長が生死を分けた西欧国家群


西欧の権力者はどうか。西欧の王、貴族達は、最初から経済政策を積極的に進め、そこから多くの富を徴収した。西洋の群雄割拠の中で、そのはじめから、戦争には大きな金がかかり、資金は軍事力に直結し、国家存亡に関わった。

特に西欧が世界的に躍進するのは、大きな富がもたらされた大航海時代以降であり、富が軍備強化を生みそれがまた植民地競争を優位にして、また富を生む。まさに軍備競争だった。

富の集中が絶対主義王権を生み出し、労働から解放された豊かな特権階級の貴族層を生みだし、農奴制などの身分社会を強化した。さらにその後、重商主義重農主義自由主義へと、経済成長を促すシステムへいち早く移って行った国が富を得て、覇権を奪う。そしてその結果が、近代化、資本主義によるグローバル国家体制となる。

西欧の精神性を規定したカトリックは、そもそも商業をには消極的で利子を禁止したが、実際は格差社会の一部を担っていた。カトリックも、富を得る特権階級の一部であり、植民地政策に布教という正当性を持たせる王権と共同関係にあった。宗教改革でのプロテスタントの台頭は、このようなカトリックの既得権への対抗であったが、その基本はより自由な経済活動を求める人々であった。




世間からの圧力が武士の清貧を維持する


世界的にも支配者層武士の清貧は特異なものだったといえる。農本主義や、嫌銭、倹約、徳治政治は儒教の影響が大きいだろう。しかし理念と実際に差があるのが一般である。権力は必ず腐敗する。儒教的な理念を守り、腐敗を抑止した理由の一つは、職分主義だろう。それぞれがそれぞれの職分を全うすること。

武士は支配者であるが、また政治や行政、治安維持、司法などの武士の職分がある。農民は農民の、商人は商人の、それぞれの職分がある。それぞれが全うすることで、社会が成立している。そして職分において士農工商は横関係である。江戸時代にはこれは「世間」として成熟する。世間という倫理であり、暗黙の監視システムが働くことで、武士は武士の職分を果たす。これは士農工商を縦関係で見ると見えてこない。

武士の多くはもともと農民層で出身である。戦さの時代は終わったのに、刀をぶら下げてなにをしているのか。農民から税を取り立てる権利がどこにあるのか。武士の職分とは、存在理由とは。これは、江戸時代に武士に突きつけられた世間の圧力である。

このような圧力が働くのは、島国日本という閉鎖空間の疑似単一民族であり、また鎌倉時代以降、庶民に浸透した仏教の慈悲の影響だろう。この閉鎖空間において、誰もが誰かに慈悲を施すことで、全員が救済される。この閉鎖空間は江戸時代に「世間」として成熟した。




武士の崩壊と近代化


しかしやがて西欧の経済成長競争の波は日本にも到達する。西欧からの外圧と、倹約政策の限界から、徳川幕府体制は崩壊する。これらを推進したのは下級武士であるが、彼らが近代化へのビジョンを持っていたわけではない。徳川幕府もまた粛々と開国、近代化へ向けて進めていた。結果的には、大政奉還祭政一致体制、武士による軍事政権を目指した西南戦争の敗戦など、近代化へ対応できない不器用な武士層全般の自壊過程であった。

日本が近代化へのスタートダッシュに成功したのは、職分主義の影響が大きいだろう。武士層は自らの職分が近代化によって崩壊していく中、最後まで商人、農民の職分を阻害せず、商人、農民層は江戸時代の市場経済の延長線上で粛々と職分を全うでき経済成長を進める。そして西欧近代の富と軍備強化のスパイラルに入っていく。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文 中公新書 ASIN:B00LMB0A5Q


これまで 「世間 」の研究は 、井原西鶴浮世草子などにより 、町人のものとしてなされることが一般的であった 。しかし 、町人は 「世間 」に背を向けて利欲や恋愛に生きることが許されたが 、武士にそういう自由はない 。本書で見てきたように 、武士たちこそ細心の注意をはらって 「世間の批判 」を受けないよう行動していたのである 。言い換えれば武士が構成する 「世間 」の評判こそが 「武士道 」の規定となった 。その武士の 「世間 」は 、他の階級の 「世間 」に比べてはるかに厳しい倫理を要請したのである 。武士は 、武士道に背いたと思われた場合は 、もはや武士社会で生きていくことができない 。武士の 「世間 」が 、厳しい制裁を行うからである 。そういうなかで武士は 、他の階級の者とは比較にならないほど厳しい倫理観を身につけざるをえなかったのである 。冒頭に掲げた 「サムライはなぜ 、これほど強い精神性がもてたのか ? 」という問いに対する解答は明らかであろう 。
個々の武士は 、自らの内面的な倫理観だけでそういう精神性をもちえたのではない 。本書で述べてきたような厳しい 「武士の世間 」があったからである 。強固な意志で自らの行動を律していたと思われる武士こそが 、最も 「世間 」に左右されていたのである 。