2ちゃんねるの記号消費と人格消費

「どうよ?」ってどうよ?
2ちゃんねるにおいて、「なんのために生きているのだろう?」というスレッドを立てたとする。そこには記号の裏に、必ず意味としての個人的な心象が含まれている。たとえば、「おれいま生きてくのが、つらいんだ。おまえらどうよ?」

コミュニケーションとは、自分の抽象的な心象を、交換し合う行為であり、コミュニケーションしたい欲求が先にあり、うまく伝えるとは、相手の内面(心象構造)をよく理解して、相手に会わせて言語という道具をうまく活用しようとする。ここには共有し合いたいという強い欲求である。

そして「どうよ?」というコミュニケ−ションは、二つの「未理解」を生む。記号的「未理解」と心象的「未理解」ある。
「未理解」とは、単純な知らないこと(知識)ではない。より解体欲を刺激するという意味で、「未理解」とは未開の地であり、秩序性が高いものである。すなわちそれは「問題」ではなく、「謎」である。
記号「未理解」とは、デノテーション(外示)的「謎」である。上述の例では「生きる」ことに対する「謎」である。もう一つの心象「未理解」とは、コノテーション(共示)的「謎」である。それは発言者に対するものである。彼がなぜそのような疑問をもったのか?彼とは誰なのか?
2ちゃんねるは、このような「謎」を消費する装置である。消費とは、提示された「謎」にレスすることにより、解体しようとすることであり、また解体できない「謎」は噂、物語(誹謗中傷など)というシミュラークルを作りだす。これが「記号消費」である。対象は、政治、事件、学問、有名人などなど、各カテゴリーで世界のほぼすべての事象が網羅されている。
そして、2ちゃんねるで、より多く消費されているのは、記号「謎」よりも、2ちゃねらーそのものへの「謎」である。これは「人格消費」である。上述で「コミュニケーションが共有欲求に根ざしている。」といったが、これが発信者だけでなく、返答側にも起こっていることから考えれば、当然の事である。記号を理解するためには、それを発言した人を知らなければ、それは「迷い込んだ手紙」であり、それは言語の多義性から一義性への選択のための情報(主体心象)が決定的に欠落し、主体を失ったコミュニケーションにおいては、客体の心象は混乱する(不安になる)のである。たとえば2ちゃんねるで、使われる「厨房」、「ドキュソ」などの言葉は、「おまえは社会的意味で一般的な人と差異(謎)がある。」という意味であり、その蔑視的発言は、主体の感情を揺さぶり、心象「謎」を露出させようという行為である。
2ちゃんねるで言われる社会的な問題は、このような解体欲が過激化するところにある。解消されない「謎」は、記号としても固有名や「名無し」としての発言者への出鱈目で、過激な噂、物語(誹謗中傷など)というシミュラークルを大量発生させる。これらは2ちゃんねるを外から見たときに非生産的な集団にみえる大きな理由の一つである。