情報様式論 THE MODE OF INFORMATION マーク・ポスター (1990) その1

情報様式論 (岩波現代文庫)

序章 何も指示しない言葉

情報様式とは、歴史がシンボル交換の構造における諸変異体によって区別されることであり、すべての時代は、意味作用の内的外的な構造、手段、関係を含んだシンボル交換の形態を行使している。


「情報様式の各時代」

  • 対面し、声に媒介された交換・・・自己は、対面関係の全体性に埋め込まれることによって、発話地点として構成されている。 
  • 印刷物によって媒介され書き言葉による交換・・・自己は理性的/想像的自立性における中心化された行使者として構成されてる。
  • 電子メディアによる交換・・・自己は脱中心化され、散乱し、多数化され、常に不安定なままである。


「電子メディアによる交換」
メディアの複雑な言語世界、コンピュータとそれがアクセスできるデーターベース、国家や会社の監視能力、そして科学の言説などは、異なるコミュニケーションのパターンも、言語の自己−指示的は様相の最前線に移行しつつある。問題なのは社会関係のネットワークを大きく変容させ、これらの関係やそれが構成する主体を再構造化している新しい言語の編成なのだ。

自律的で、理性的な主体は鏡の無際限の戯れや、主体と対象との不確定な交換の深淵が現れ、そこでは現実と虚構、外部と内部、真実と誤謬とが、コードや言語やコミュニケーションの曖昧なきらめきの中に揺れ動いているのである。この世界では、主体は、錨も、固定した場所も、視点も、独立した中心も、明確な境界ももっていない。フーコーが「言語と物」の中で「人間」が死んだと書いたとき、彼は情報様式における主体の方向喪失について述べていたのだった。

情報様式が問題にしているのは、単なる感覚の装置としてでなく主観性の形態そのものなのである。すなわち、その対象世界への関係、その世界に対する視点、その世界における位置なのだ。われわれが直面しているのは・・・マクルーハンが考えたような感覚の組み変えではなく、むしろ主体の全面的な動揺なのである。情報様式において、主体はもはや絶対的な時間/空間の一点に位置しておらず、また物理的で固定された視点をもってそこから何かをするかを合理的に選択判断したりはしない。その代わりに、主体はデーターベースによって増殖され、コンピュータによるメッセージ化や会議化によって散乱し、テレビ広告によって脱コンテクスト化されたり再同定されたり、電子的なシンボル転送において常に溶解されたり、材料化されたりしているのである。

現代社会への行為中心アプローチ否定の理由」
最近の抵抗的運動で主導権を握っているグループ、たとえば女性とかマイノリティーたちは、自由主義マルクス主義のメタ物語によって「他者」として記述されたきた。これらの大理論は、それ自身を支配から解放することができると考えられる理性的主体の不満に訴えかけている。女性やマイノリティーはこうしたプロセスから排除されており、少なくとも中心的な政治ドラマの周縁にいる。「他者」の政治学を考えるためには、・・・理性的な主体の姿がもはや土台あるいは枠組みとして働かない認識論的なオーバーホールを必要とする。ポスト構造主義の立場はまさしくこの方向に向かっている。

社会のあり方が私にはますます、言語の自己−指示的な様相を強め、その上に広がる電子メディアによるコミュニケーションによって構成されているよういなっているように思えると言うことである。自由の拡大という目的のために物の世界を制御しようという理性的で自律的な主体の意志の道具として言語を心に描く代わりに、新しい言語構造はそれ自身を回帰的に指示し、指示性を崩壊させ、それによって主体に働きかけ、それを方向を見失わせるような新しい仕方で構成するのである。ここでも、ポスト構造主義の理論的テクストはすでにこのような禁じられた道の領域に踏み込んでいる。


コメント

本著は、現在私が思考しているものに多くにおいて似ている。やはり誰かが考えていたとは思ったが、と言う感じである。私の考えと比較すると、「対面し、声に媒介された交換」は「パロール時代」であり、「印刷物によって媒介され書き言葉による交換」は「エクリチュール時代」、「電子メディアによる交換」は「パロリチュール時代」に相当するが、特に私の場合、電子メディアでもTVなどのマスメディア的なものはエクリチュールであり、ネットコミュニケーションなどの個人が発信可能なものをパロリチュールとしている。すなわちマス対パーソナルの図式で区分している。この違いの理由のひとつは、本著が、インターネットがまだ限られた人によって使われていた時代のものであり、マスメディアとインターネットが同次元で分析されていることによると思う。

さらには私の場合は、電子メディアにより、主体の全面的な動揺を乗り越えても主体の同一性を保とうとする力を想定している。電子メディアという記号社会の中で虚像的であろうが自己同一性を保もとうとする主体の力、それは生命力と呼ぶものかもしれない。だからポスターは電子メディアが主体を散乱させるといい、私は虚像的に組織化させるというのである。