現実界はなぜ構造化されているのか

pikarrr2006-01-14


「(現実界の)器質的構造」「(象徴界の)言語的構造」の対立

しかしラカン「無への欲望」あるいは「死への欲望」と、ボクの「無垢の欲望」は同じではない。ラカンの欲望論の根底にあるのが、ヘーゲルの欲望論、すなわち動物は欲求し、人間のみが終わりない欲望をするという、「人間/動物」の差異である。この「人間」ラカンではハイデガーの現存在に繋がる。「人間」のみが死ぬことができるという特別性であり、物語としての「人間」であり、死ぬことによって物語は完成し、人は物語として完成することを望むのである。だから「欲望は死の欲望である」のは、「人間」の欲望だからである。

ボクが、構造化から差異化されたものとしての「無垢」への欲望というときに、「人間/動物」の差異は維持されない。なぜなら、「動物」も維持されるためには、「無垢」を必要するからである。すなわち現実界も構造化されているからである。

そして、ヘーゲル「人間/動物」の差異−これはデカルト心身二元論の二項対立と考えても良いだろう−におけて、「動物」「(現実界の)器質的構造」であり、ラカン的な「人間」は、「(現実界の)器質的構造」「(象徴界の)言語的構造」の対立と考えることができる。そしてこのような構造のダイナミズムの維持には「無垢」が必要とされるのだ。

なぜ「無垢」への欲望が生のダイナミズムなのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060108

リーマン
現実界も構造化されている」ということはないでしょう。現実界は認識の彼岸にあるんじゃないんですか?

ぴかぁ〜
現実界は認識の彼岸ことと、構造化されていることは、対立しないでしょう。確かに認識の彼岸なので、構造化されているか、わらかない、ラカンはいうでしょう。その上で、構造化されているといっているのです。なぜなら、現実界に欲動という作用があるのは、混沌であるはずがありません。認識されなくても、構造があるだろう、というのが、考察です。

さらにいえば、ボクはこの世界は構造であると考えるわけです。世界がただ混沌であるなら、世界というものは存在しない、ということです。

リーマン
現実界は認識の彼岸にあり、人間によって認識される=「構造化される」のであって、不可視であるとかわからないとかではなく(まるでベールがかかっているかのように。それはむしろ無意識)、認識以前の言語化以前の世界でしょう。言語という象徴は「もの」の殺害なのですから、言語である「混沌」「構造」現実界「在り方」として使うことは出来ません。それ自体が論理矛盾です。

勉強不足で申し訳ないんですが、現実界の欲動」とはいったいなんでしょうか?「構造にダイナミズムを産み続けます。」の意味がわからないです。

ぴかぁ〜
ラカンにおいての現実界は、単に「認識の彼岸」ではなく、享楽の場所です。象徴界へ参入する前の母と未分化の状態という全能感を取り戻そう(たとえば近親相姦)とする欲動が働く場であり、象徴界は、その享楽を禁止するように働いているのです。だから正常な主体にとって、現実界「認識の彼岸」にあるのです。それに対して、現実界が露呈してくると精神病理になります。

ボクが現実界も構造化されているというのは、ラカンとしてのトンデモです。しかしドルゥースがこの死の欲動を、生の欲動としてとらえ、その原型として器官なき身体として考えたように、現実界「身体」です。だから言語でなく、なんらかの構造化であるというのは、それほどおかしくないと思います。

リーマン
非常に大きな勘違いをしていました。大変勉強になったので、感謝と確認をさせてください。

「認識の彼岸」、認識できないものとは認識できないのだから「認識できない」と語ることは原理上出来ない。にもかかわらず、自分が「認識の彼岸」とそれを名付けている時点で既にそれは精神の内部にあり、「内部の内部」としての外部なんですね。外部を「語る」には、「内部の内部」として語る以外にない。

現実、というときに常に二つのことが同時に指し示されていて、それは現実という言語化されないものを言語であらわしている、ということ。逆に言えば言葉の力は、何かが存在することを指し示すことにあるのではなく、否定することで何かの痕跡をあらわすことにある。何かがあった。しかし今は無い。

現実界と言うとき、それは象徴界を前提としているわけですね。そして当然、カントが「物自体」という「概念」を発したとき、この二重性−存在と象徴−を当然含んで発せられたわけですね。

ぴかぁ〜
>否定することで何かの痕跡をあらわすことにある。何かがあった。しかし今は無い。

これですね。「欲望は無への欲望である。」無いことが、ある。「無いこと、がある」を理解するというのは、とても高等なことらしいね。人間以外、一部猿でわかるとか、わからないとか。まさに人間の特性で、欲望の本質であり、現実界のありよう。

これがラカン理解の一番わかりにくいところ。というか、これはハイデガー「真実とは」から来ているのだけど。

欲動自身は、貧乏揺すり?のように、もっと生物学的なものです。だから、象徴界で禁止された近親相姦のようなものをただただ享楽しようとする。しかしこれはまた欲望の、そして主体であることの、根本的な契機になっている。たとえば、そこに他者がいるだけで、欲動は発動し、コミュニケーションしようとする。しかしそれは象徴界(社会関係)を無視していますから、それだけだと想像関係による闘争になるので、象徴界が必要とされる、ということです。

リーマン
ハイデガーというと、「死を先験的に生きる」という言葉が浮かびます。死は自然的な死ではあり得ない。象徴的な、痕跡としての「死」として死は存在する。そしてその象徴界のネットワーク自体の死(要するに本人の死)がある。ここも同時に二つのことが語られている。

だから「死」を想像できるのは、痕跡=言語を扱うことの出来る高度な知能を持った人間にしか出来ず、逆に言えば自分が死ぬという究極的な終焉を想像し、そこから自分の人生を俯瞰的に眺めることが可能である、「死」に立ってよりよき生を、と言う結論が得られる、と自分では解釈します。

ぴかぁ〜
そのような意味で、ラカンハイデガー「死」に見せられています。「欲望は死への欲望である」とは、死ぬことははじめて、欲望は成就するようなもの。動物は「死」なない。「人間」だけが「死」ぬことができ、そこで完結することができる物語である、ということです。

ラカンを生へと読みかえたいボクはまさにここを検討したいのです。ボクたちの生きることの緊張感、充実感は本当に「死」を元にしているのか。「いつか死ぬこと」をしるから、今を生きられるのか?

動物は「死」をしりません。しかし彼らにも生きる緊張感、充実感、慎重さがみなぎっています。生きることと死ぬことは必ずしも関係していないのはないか。ただただ、生の欲動(エロス)は生きることを向かう、のではないか。

そうすると、ラカンの欲動も必ずしも、死の欲動とは言えないのですね。ボクが現実界も構造化されていると考えるのは、生の欲動(エロス)を生命の力として見るからです。

ぴかぁ〜
そこでボクはラカン「無への欲望」「死への欲望」「無垢への欲望」を読みかえるのです。

欲動によって、象徴界の禁止への進入がなければ、象徴界は変化することなく、止まってしまいます。言語体系とは、それが間違っているとされる言葉の使い方がされること、「語り得えるもの」を語り続けることから、変化します。秩序という安定とは、静止ではなく、安定した動にあるのです。なぜなら止まってしまうと、環境圧によって風化するからです。

「無への欲望」「死への欲望」は、決して満足しないことを示しています。それは、決して反復に満足せず、差異を求め続け、「無垢への欲望」ともとれます。だから動物は「死」をしらなくても、生きる緊張感、充実感、慎重さがみなぎりつづけています。

しかしこれでは「動物は欲求するだけ、人間だけが欲望する。」という、欲望の定義がかわります。動物の「無垢への欲動」は、環境圧によって供給されます。野性では毎日が、瞬間瞬間が反復に還元されない差異の世界です。だから無垢(差異)がいつも過剰です。いわば、無垢への欲望は満たされつづけており、欲望は消失しているのです。

それに対して、人間は環境からガードされています。これは象徴界の効果です。象徴界という秩序は、環境からの差異の進入の防波堤です。象徴界によって、毎日が反復に還元され、差異(無垢)が欠乏気味です。だから無垢(差異)を求め続けるのです。象徴界が禁止した享楽を欲望し続けるのです。だから「無垢への欲動」は人間と動物にあるが、「無垢への欲望」は人間のみです。

これが、「無垢への欲望」論のアウトラインです。

ぴかぁ〜
ここでは生命は現実界という差異をたべ自身を維持する創発機械であり、象徴界も社会という創発機械です。 「機械」だとドゥルーズっぽいですね。ドゥルーズとの違いはドゥルーズが動物/人間の差異をこえていない。あくまで人間の物語にとどまり、マルクスを横目にみて資本主義分析なところですね。ボクはダーウィンを横目に見ています。だから「環境圧」自然淘汰)を組み込んでいる。ラカンドゥルーズらが「環境圧」自然淘汰)を語らないのは不自然だと思うんです。これによって物語がとてもすっきりする。

さらにつっこめば動物も欲望するし、象徴的秩序があるのではないでしょうか。犬猫も嫉妬する。猿の群れは近親相姦を避けるシステムがあります。(これを単なる先天性といえるだろうか?)

現実界(個体性)と象徴界(社会性)の対立に、象徴界に抑圧された現実界としての「欲望」は生まれる、ということです。

ラカンは(精神分析)科学であり、ドゥルーズは(哲学)思想であり、ボクは(自然主義的)科学である、ということです。

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*1:本内容は、2ちゃんねる哲学板「あぼーんする快楽 PART12 」スレッド http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1134659823/からの抜粋です。ただし内容は必要にあわせて編集しています。

*2:画像元 http://www.fjexpeditions.com/tassili/sefar/sf10.jpg