ネット依存の快楽

pikarrr2006-02-10

ケータイという対戦ゲーム

最近のケータイの使用はすさまじいものがあります。最近おもわず写真とりたくなった光景があって、昼時、街のスパゲッティー屋さんの前で椅子にすわって順番待ちしてる四人家族がいて小学生ぐらいの息子、娘とパパ、ママの四人が待ちながら四人とも黙々とケータイを触ってました。なんか微笑ましいような、不気味なような。最近、電車でも小学生前の幼児が騒ぐ横でママがケータイに夢中な光景はよくみます。

みんなつながりを求めてということは言われますが、どちらかというとケータイという対戦ゲームを楽しむと言うほうがよいのではないでしょう。プログラムされた他者よりも本当の他者という予測不可能な反応と限りなく私であるが私でない他者。究極の欲望の対象を使ったゲーム。プログラムされたゲームも疑似他者とのコミュニケーションです。




物神性と無垢性


ジジェクは、ラカン「はじめに(精神分析的)症候を発見したのはマルクスだ」といったことを紹介しています。「商品」というものの交換を成り立たせているものが「上から二冊目の本」性、すなわち物神性だとマルクスはいっています。それも資本論のはじめはこの欲望論からはじまっています。なぜならそれが資本主義の根源的な問題だからです。

問題は、マルクスが言うものの交換、すなわちコミュニケーションを成り立たせている可能性としての物神性がケータイという機器、通信費など含めた現象において当然働いているだけでなく、もはやその物神性のみが交換されているという事実です。すなわち物神性を呼び出すために、コミュニケーションの(不)可能性にベットされているのです。

商品の物神性とは賭けであり、「神だのみ」です。商品交換そのもののこのギャンブル性が必要以上の交換にむかわせるという交換に隠された欲望をマルクスは暴露したわけであり、ケータイはこのギャンブルのみが消費されているわけです。そしてこの物神性が無垢性です。




賭けと夢と「生き生き」


このような賭けをなりたたせているのが、「社会性」です。「社会性」としてつながりながらそこには断絶がある。断絶をまたいだ交換には賭けがあり、その緊張をやわらげるために物神性という幻想をみる。しかしその賭けにともなう夢、買わなければ当たらないという宝くじ同様の夢こそが消費となる。そしていかに夢をつくりだすかがマーケティングですが、もはや与えられるのでなく自ら夢に酔おうということがケータイやネットが駆動する原理です。

賭けるという危険に人は酔う。この「生き生き」が無垢です。賭けになぜ興奮するのか。自分を賭けているからです。自分のお金、所有物を賭けているということでなく、自分自身が賭けられているのです。たとえばコミュニケーションは恐いですね。街でみず知らずの人に声をかけると怪訝な顔をされ、それで傷つきます。そしてこれは自分が賭けられているというよりも、賭けそのものが「自分」を立ち上げるのです。賭けは他者が現前している必要はなく、物思いに耽っているときも小さく賭けられています。賭けとは私が私だという単独性の獲得の実感なのです。だから人はこの「生き生き」がなければいきていけません。




無垢欠乏と安全な賭けと中毒


かつては生存するためには危険な賭けでも参加しないと生きていけない、いや巻き込まれており、むしろ危険すぎて生きるのが大変でした。しかし現代は賭けから逃げて生存できます。危険な賭けに巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。そして安全な賭けで間に合わせる。安全に引きこもるために、むしろ無垢欠乏症になります。安全な場所から小さな賭けをして「生き生き」するのです。

マック、コンビニなどは「他者回避」の場です。ワイドショー、ハリウッド映画、テレビゲームなど、管理された安全な賭けで間に合わせる。さらにロリコンのポイントは幼児という弱さ存在という安全であり、幼児を欲望するという社会的に禁止されている危険な賭けです。2ちゃんのヘイトスピーチも安全な位置から、禁止された言葉をいう賭けです。

しかし無垢とはなんに身体的な生死をかけた危険な賭けをするのとは違います。無垢とは私が私であることの賭けであり、単独性の満足がめざされます。身体的な危険な賭けは、それを私しかできないという意味で無垢であって、その身体の危険からくるスリルでない。主体をとり戻しのために、「生き生き」するために無謀が表出しています。より禁止へ危険へ、そして身体的なスリルへ。

ケータイという対戦ゲームにおいて、私の取り戻しであるのか、身体的なスリルであるのか、違いを見いだすことができるだろうか。ボクたちにあらかじめいまのようなケータイを望む欠如があったわけでなく、ケータイにはまることで欠如が生まれ肥大してゆくというときの中毒性において、どちらにしても快楽は身体的なものです。
*1