中村元選集21巻 大乗仏教の思想 ISBN:439331221X

pikarrr2015-12-27

大乗仏教
クシャーナ帝国、商人層に人気、農民は少ない

「仏心とは大慈悲これなり」

自分が彼岸の世界に達する前に、まず他人を救わなければならない
菩薩 利他行を実践する人、求道者
あらゆる人を救われることをめざす


信仰を強調する思想 古代社会が崩壊後に現れて、封建社会にとくに強調、近代社会で減少


阿しゅく仏、阿弥陀仏弥勒仏、薬師如来
観世音菩薩、文殊菩薩普賢菩薩地蔵菩薩


原始仏教で禁止された呪句 民衆に受け入れやすいように。音写して呪術的な効果を狙う


中観派唯識派




無我説


我とは「自己」ではなく、「自体(自性)」「本体」

伝統的保守的仏教 
 法の自性が実有である 説一切有部(せついっさいうぶ)
大乗仏教 
 諸法の無自性、空、もろもろの事物は、互いに条件付けられ、相互依存して成立しているもの、すなわち縁起しているものである。法の自体なるものは実在しない、すなわち「無自性」である。縁起即無我。人無我、法無我、二無我


ただし唯識派 アラーヤ識
 大我、真我 真実に我が無いわけではない





仏性 仏となりうる可能性


空 般若経典 「大般若波羅蜜多経」、「般若心経」、「金剛般若経」、「理趣経


諸法が無自性・空である以上、如来も空である。
 ブッダとは名のみである。
 ブッダ如来は実は縁起あるいは空の理法そのものを指しているにほかならない。
 「縁起を観ずることが、すなわち法を観ずることであり、それがそのまま仏を見ることある」


6つの完成 六波羅蜜
 智慧の完成(般若波羅密多)、与える(布施)、いましめをまもる(持戒)、たえしのぶ(忍辱)、つとめはげむ(精進)、静かに瞑想する(禅定)


いかなる生きものにも物性がある(大般涅槃経
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)


シナ 八世紀 天台 荘子万物斉同の影響 シナ禅の現象絶対観
日本 
 草木成仏 草木不成仏 ありとあらゆるものが、いかなる修行やさとりをも借りることなく、そのまま仏である。本有本覚の如来
 現実肯定の思想  日蓮 われわれはすでに救われている
 日本人 山川草木といえどもその根底において仏である、あらゆるものを大切にする




慈悲


大乗仏教
 他人のために奉仕する慈悲行の精神が中心
 菩薩 大乗の修行を行う人 大慈悲心を持っている人 弥勒菩薩


 さとりを得て、それから慈悲がはたらく
 ナーガールジュナ 慈悲心があるからこそ、さとしが得られるのだ
 仏心とは大慈悲なり。


伝統的保守的仏教
 十種の完全な徳
 施与、戒律、出離、智慧、精進、忍ぶこと、真実、こころを確立すること、慈しみ、平静
大乗仏教では、完全な徳は、すべて慈悲にもとづくものである。
 

仏の大慈悲は絶対的なもの
仏菩薩は慈悲心をもって衆生をあわれる、衆生をすくうために人間その他の種々なる身体を現ずる
真の求道者はニルヴァーナに入ることなく生死輪廻のうちにあって、生きとし生けるものどもに奉仕することが理想


浄土宗
 求道者がみずから究極の境地に到達して、仏となって他の世界にあり、そこでは理想の国土を建設し、この世における信仰心ある一切の生きとし生けるものどもをそこに救いとる
 無量寿仏(阿弥陀仏)の慈悲


自他不二の倫理  自己を否定して他人に合一する方向の運動
近代西洋の、個人として他人を絶対的な他者と意識してそれにはたらきかけるではなく、自己と他人とが一体不二になる


ウパニシャッド 自他不二の倫理の基礎がある
シナ 荘子 「万物を斉しくすることを道となす」 自他対立の問題が不十分
   隋唐時代の仏教教学 天台宗 自他不二、華厳宗禅宗
           浄土宗 自他融即 曇鸞→日本の親鸞
日本の禅宗 自他不二   


問題
自己と他人とが同一の実体に属するものなら、他人をそこなることは実は自己をそこなうということだけのことにすぎなくなる。
他人を害してならないという命法はいかに成立しうるのか?


だからこのような意味の自他不二は、同一次元に位置する二つの存在の融合ではなく、対立する二つの存在のうち一方が自己を否定するという運動において実現する。空の考察が必要。




慈悲


他利行の実践はどこまでも空観ももとづくべきもの


自他不二の倫理
 相い対立する自己と他人とが究極の根底としての否定においては同一のものであり、両者の対立はやがて否定されるべき現象形態にすぎない、という前提のもとに成立する。


有無の対立をはじめ一切の対立をはなれた境地から、慈悲行はおのずと現れてくる。はたらく主体とはたらかれる客体との対立もない。覚るものと覚られるものとの対立もない。真実の智慧という絶対的立場が、現象的世俗的立場のうち開顕してきたときに「慈悲」となるのである。


空観にもとづく無縁の慈悲
 空の立場を自覚してこそ、その慈悲行が純粋のものとなる。


ナーガールジュナ
慈悲の三種
 衆生縁(衆生を縁とするもの) 個々人の対立のもとの慈悲。利益安静を求める
 法縁(法を縁とするもの)  個人存在が独立な実体ではないと思って他人に奉仕する
 無縁  あらゆるものが平等と観じ、空性を認める

「慈の所縁は一切の衆生なり。父母妻子親族を縁ずるがごとし、この義を以ての故に名付けて衆生を縁とする[慈]という。法を縁とする[慈]とは、父母妻子親族を見ず、一切法は皆縁より生ずると見る、これを法を縁とする[慈]と名づく。無縁の[慈]とは法相および衆生相に住せず、これを無縁と名づく。」
大般涅槃経

慈悲とは人間の本然の性に復帰すること
諸法の空なることを体得したならば、慈悲はおのずから顕現すると考えていた。
他の個的存在のための全面的帰投ということは、自己と他者との対立を撫無される方向においてのみ可能である。そしてそのことは自己と他者との対立が、実は究極において否定に裏づけられているということを前提としてのみ成立し得る。対立は空なのであり、空においてのみ対立が成立する。


一人の憎悪している他人、われと対立関係
→他人の増悪されるべき存在が空観によって否定
→眼に見えぬ本来の人格がわれと向き合う
→対立なく、憎悪の観の消失、愛憎を越えた慈悲が実現


※「自己と他者との対立が、実は究極において否定に裏づけられているということを前提としてのみ成立し得る。対立は空なのであり、空においてのみ対立が成立する。」
わからない?空による否定がなければ、自他という対立が真実になってしまう?空によって否定されることを前提に自他が存在している?なぜ自他が存在しているのか?


すなわち現象的な自己を無にきしたとき、慈悲が絶対者からあらわれるのである。そして慈悲は行は個我のはからいではなく、個我を超えた絶対者から現れ出るものなのである。


※慈悲の発生について語るが、受け取る側のことはないのか。受け取る側は衆生である?祈りとともに受け取るのか?




慈悲とその他の愛との比較


・慈悲はすべての人々に及ぶ愛
 自愛心は、自分、家族、宗派、国への執着


・愛は感性的なもの、醜いものより美しいものを愛する
 慈悲は
 自分に対しては感性的なものを無視、他人に対しては感性的なものを尊重する
 自分に対して厳格、ひとに対しては寛大
 感性的な好悪を超越して、あまねく人々を愛する。他人の感性的な感情欲望などは尊重
 世俗的・現世的なものを肯定しうる。


・慈悲は感性的なものを肯定しうるがゆえに、感性的なものに溺れている人に慈悲を修してはならない場合がある。貧愛の強い人にとって不適当。一種の精神療法。


・人間の愛には、親疎の差別がある。
 慈悲と平等は同一の実践的原理


・慈愛は対立を超えた理想であるのに対して、愛は個我への執著を内蔵している。


・恋愛は独占欲をともなっている。


・日本では、武士たる者の理想の心境として掲げられていた。
 「一、大慈悲を起し人の為になるべき事。」(葉隠


・慈悲は、子に対する親の愛情を通して、それの純粋化されたものとして理解される。


・慈悲は上から下だけではない


キリスト教の愛アガペー
 なぜ神は人に苦、不公平を与えるのか。慈悲があるといえない。
 神に救われても、神と人には絶対的な断絶がある。


儒教の仁
 階位的秩序に順応して、上位者が下位者に対して示すもの。