歎異抄 親鸞


転写元 http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub11.htm#tannnisyou.11




他力本願、自力批判

(三)
善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。
ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。

(四)
慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。




自然

(八)
念仏は、それを称えるものにとって、行でもなく善でもありません。念仏は、自分のはからいによって行うのではないから、行ではないというのです。また、自分のはからいによって努める善ではないから、善ではないというのです。念仏は、ただ阿弥陀仏の本願のはたらきなのであって、自力を離れているから、それを称えるものにとっては、行でもなく善でもないのです。

(十三)
またあるとき聖人が、「 唯円房はわたしのいうことを信じるか」と仰せになりました。そこで、 「 はい、信じます 」 と申しあげると、 「 それでは、わたしがいうことに背かないか 」 と、重ねて仰せになったので、つつしんでお受けすることを申しあげました。すると聖人は、 「 まず、人を千人殺してくれないか。そうすれば往生はたしかなものになるだろう 」 と仰せに なったのです。そのとき、 「 聖人の仰せではありますが、わたしのようなものには一人として殺すことなどできるとは思えません 」 と申しあげたところ、 「 それでは、どうしてこの親鸞のいうことに背かないなどといったのか 」 と仰せになりました。続けて、 「 これでわかるであろう。どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときには、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう 」 と仰せになったのです。このことはわたしどもが、自分の心が善いのは往生のためによいことであり、自分の心が悪いのは往生のために悪いことであると勝手に考え、本願の不可思議なはたらきによって お救いいただくということを知らないでいることについて、仰せになったのであります。

「 戒律を守って悪い行いをしない人だけが本願を信じることができるのなら、わたしどもはどうして迷いの世界を離れることができるだろうか 」 と、聖人は仰せになっています。このようなつまらないものであっても、阿弥陀仏の本願に出会わせていただいてこそ、本当にその本願をほこり甘えることができるのです。だからといって、まさか自分に縁のない悪い行いをすることなどできないでしょう。また聖人は、 「 海や河で網を引き、釣りをして暮らしを立てる人も、野や山で獣を狩り、鳥を捕らえて生活する人も、商売をし、田畑を耕して日々を送る人も、すべての人はみな同じことだ 」 と仰せになり、そして 「 人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである 」と仰せになったのです。

(十六)
浄土への往生については、何ごとにもこざかしい考えをはさまずに、ただほれぼれと、阿弥陀仏のご恩が深く重いことをいつも思わせていただくのがよいでしょう。そうすれば念仏も口をついて出てまいります。これが、 「 おのずとそうなる 」 ということです。 自分のはからいをまじえないことを、「 おのず とそうなる 」というのです。これはすなわち阿弥陀仏の本願のはたらきなのです。それなのに、おのずとそうなるということが、この本願のはたらきの他にもあるかのように、物知り顔をしていう人がいるように聞いておりますが、実になげかわしいことです。




現世利益批判

(十四)
念仏して罪を消し去ろうと思うのは、自力にとらわれた心であり、命が終わろうとするときに阿弥陀仏を念じて心が乱れることなく往生しようと願う人の本意なのですから、それは本願他力の信心がないということなのです。

(十八)
寺や僧侶などに布施として寄進する金品が多いか少ないかにより、大きな仏ともなり、あるいは小さな仏ともなるということについて。このことは、言語道断、とんでもないことであり、筋の通らない話です。

一方、その寄進は、仏になるための布施の行ともいえるのですが、どれほど財宝を仏前にささげ、師に施したとしても、本願を信じる心が欠けていたなら、何の意味もありません。寺や僧侶に対して、たとえ一枚の紙やほんのわずかな金銭を寄進することすらなくても、本願のはたらきにすべておまかせして、深い信心をいただくなら、それこそ本願のおこころにかなうことでありましょう。