なぜ「モヒカン族」なのか。

pikarrr2005-07-11

モヒカン族って・・・


最近、ブログ界隈でモヒカン族なる言葉が流行ってきているらしい。(http://mohican.g.hatena.ne.jp/)その意味は、

・技術原理主義者。規格至上主義者はその中の一部族である。
ムラ社会文化のナァナァの馴れ合いじゃなくて殺伐とした議論を求む
(参照 http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a2%e3%83%92%e3%82%ab%e3%83%b3%e6%97%8f

これを聞いてボクは、「ほ〜」っと少し感嘆した。だって、こんなのは、ある意味2ちゃんねるではあたりまえだからである。ボクが感嘆したのは、この当たり前があえて、モヒカン族なる排他的な表現で呼ばれはじめたことへの感嘆である。




内部としてのムラ社会/外部としてのモヒカン族


ボクはネットコミュニケーションの方法として4つに分類した。

①ROMに徹する・・・・これが一番無難ではある。
②過剰な丁寧スタイル・・・・自己主張を極力さけ、相手を立てて、低姿勢で対応する。
③2ちゃんスタイル・・・・上述のメタレベルを担保しながら、言いたいこという。
④データーベーススタイル・・・・「事実情報」のみをデータベース的に提示する。たとえば、パソコンの技術情報の記述や、最近のニュースの内容を、自分の感想を込めずに、「事実情報」として、提示する。これはいわば、オタク的コミュニケーション方法といえるだろう。オタクとは、ある領域のテクニカルな内容をより細部に向けて、データーベース化して提示してコミュニケーションする。単にその分野に共有の知識があるということで、コミュニケーションが成立し、「まなざし」の共有、すなわち社会的な儀礼へ拘束が必要とされにくい。すなわちメタレベルの意味が排除され、コンスタティブな意味のみで、コミュニケーションが成立する。

なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか?(トータル版)http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050630#p1

モヒカン族とは、「④データーベーススタイル」に対応する。モヒカン族とは、メタを排除し、その知識を知っているか、知っていないかを重視する姿勢であり、ネットにおいての知識が、情報技術に関するものになるのは自然だろう。これは必ずしも新しいものではなく、オタク的コミュニケーション方法であり、ネットでも有効は方法として用いられてきた。

おもしろいのは、それがなぜ今さら、差異化され、排他され、モヒカン族なるある意味蔑視されるのか、ということである。すなわちブログ界隈にムラ社会なるあたらなコミュニティー感覚ができつつあることを表しているといえる。ムラ社会という内部を作動させるために、モヒカン族なる外部が必要とされた、ということだろう。




ブログ界隈というムラ社会儀礼


ムラ社会とは、以下のような人々を言うらしい。

・反モヒカン族が属しているコミュニティそのもの
・反モヒカン族が信奉している旧世代の思想はムラ社会文化」と表現する

■特徴
・論理的に正しいかどうかよりも、周囲にいる仲間であるかどうかを優先して擁護する
・個人の思考法の違いを抑圧することで均質化して連帯感を盲目的に持つ
・ただ単純に自分の周辺に存在しているというだけの無意味な条件だけで「仲間」と認識する
・他人との関係を「嫌っている・好んでいる」という基準でしか判断しない
・他人から単なる事務的な指摘や事実確認をされたときでも「自分のことを挑発しているのか?嫌っているのか?」と受け取ってしまう
・自分の趣味の対象に否定的な言葉をかけられると、何の趣味を持っているのかということとその人の評価は・無関係なのに「そんな趣味を持っている人はダメだ」という風にバッシングされたと曲解して怒る
(参照 http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a0%e3%83%a9%e7%a4%be%e4%bc%9a

これは、ボクは、「②過剰な丁寧スタイル」という以上のものに相当するのだろうが、コミュニティスタイルとしてではなく、「コミュニティ」が形成されつつある、されつつあるように感じている人々が増えている。ということだろう。すなわちブログ界隈で、コンテクスト(まなざし)が共有されはじめている、ということであり、儀礼(慣習的プラクティクス)を内面化させているということである。

たとえば、「大都市のスクランブル交差点で人々はなぜぶつからずに歩くことができるのだろう」という疑問がある。それは慣れてしまえば、目をつぶっては無理でも、本を読みながらでも渡ることができるだろう。そこにはこの場合には相手はこのように動くというような「暗黙の了解」がある。

そしてこのような「暗黙の了解」は、絶えず意識しなくとも、無意識(象徴界)という言語によってボクたちの中で書き込まれているのである。そしてゴフマンが「慣習的プラクティスの網」と呼ぶように、学習されていくものである。

目上の人には敬語を使う、子供をかばう、エレベーターの中で一人ごとをつぶやかない、真剣な場ではふざけない、医者への暗黙の信頼などなど、社会性はこのような「慣習的プラクティスの網」という他者との「まなざし」の共有関係で成り立っている。

なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか?(トータル版)http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050630#p1




ネット上の儀礼的無関心


このようなモヒカン族ムラ社会の象徴的な対立に、「リンクは自由か?」というものがある。(例NWatch ver.4 「リンクは絶対に自由だ」のもとで迫害される人々 http://d.hatena.ne.jp/rir6/20050710/1120937549)これは起こるべくしておこったといえるだろう。

まさにここにあるのは、社会性が共有されているのか、いないのか、の議論である。これは、ゴフマンの「慣習的プラクティスの網」につづく、儀礼的無関心に繋がるものだろう。概略的には、「電車の中で携帯電話の使用は良いか、悪いか」(電車内は小さなコミュニティか?)と同じレベルの議論になる。

人は適応の無限後退(つまり思索)に立ち往生することもなく、互いの前提をある意味では無根拠に信じて−信じているかどうか、その必要があるかどうかさえ意識せずに−「社会的出会いの世界」に乗りだしていく。

いい例が儀礼的無関心だろう。とりわけ匿名的な焦点のない集まりで、人は、周りの動作と外見に互いのラインを一瞥し、万事うまくいっていること、互いに前提が自分の前提とするに足りるものであるを確認しては、つぎの瞬間、自分のラインにもどる。悪意や敵意、恐怖や羞恥心がないこと、進行しつつある行為が表出/読解されるラインそのままであることが確認される。共在のなか、事実として互いに儀礼的無関心を運用しあっていることを相互に確認しあうだけで、それぞれの運用の実効性が安心されることになる。・・・人はただ他の人たちと居合わせるという事実にいて、それだけで既存のプラクティスを採用−運用する。いや、せざるをえない。その結果として、共在の秩序が行為の場面場面に形成され続けているのだ。

制度とシステムの現状がいかに抑圧的、加虐的であっても、人はその再生産に「自発的に」加担していく。カテゴリカルに差別化され続ける女たちがそれでも自然な性差を信じ続け、スティグマを付与された人たちがそれでも現行秩序に居場所を求め続けているように。相互行為プラクティスへの習熟、その結果として馴染んだ経験の安定性と圧倒性をリアリティとよぶなら、人は、このリアリティのなかでまさしく眠っている。「ゴフマン世界の再構成」安川一 (ISBN:4790704033

コミュニティの暗黙の強制力 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040624

すなわちおもしろいのは、ブログ界隈では、ルールではなく、儀礼が重視されはじめているということだ。そして儀礼は当然内部として作動する。そのときにはいつも外部があらわれる。

しかし「モヒカン族」が単に排他された人たちというのは間違いかもしれない。彼らはあえて排他されている。反社会性を装っている、面も見られる。反社会的であることで、社会に参加しようとしてる、ともいえるだろう。どちらにしろ、ブログ界隈に、コミュニティー感覚ができつつあるということだ。




2ちゃんねる「祭り」とブログの儀礼


ブログ界隈で社会が形成される可能性は高いのかもしれない。2ちゃんねるでは、名無しであるために、継続した自己(他者)の同一性を保つことができない。そのために「祭り」によって、無理矢理に「まなざし」の共有が行われる。ネタはなんでもよい。みなが興奮を共有して、「祭る」ときにストーリーがうまれ、コンテクスト(まなざし)の共有感がうまれる。

それに対して、ブログの場合は、それぞれが実社会的には匿名ではあるが、自己(他者)の同一性が継続的に保たれる。それだけで、儀礼的にならざるいえない。ボクは2ちゃんねるでは、「暴れん坊」になるときも多々あるが、ブログにおいては、それは難しい。むかつく「コメント」をもらえば、2ちゃんねるなら、言いたいことをいえるが、ブログでは、ボクの同一性(キャラ)を保つために、格好悪いことはできない。

それは単にボクがカッコをつけいているとだけではなく、自己(他者)の同一性が継続的に保たれるとは、他者のまなざしによって(他者との差異によって)いるのであり、すでに、他者とネットワーク的に関係性に拘束されているのである。馬鹿なことをすると、いつも見てくれているだろう他者に馬鹿にされる、申し訳ないというまなざし(儀礼)の拘束によって、丁寧な対応によって、キャラは演じ続けられるのである。それが「まなざしの快楽」なのである。

はてなブックマーク、グループあるいはブログ記事のランキングなどなど、技術的には、社会性を高めるシステムが充実してきている。




「わかりあいたいという過剰な欲望」


このような傾向はおもしろいと思うと共に、あやしくもある。ボク自身も最近少し、ブログに閉塞性、無理矢理の共有性を感じてはいた。そこには、2ちゃんねる「祭り」そのものの目的化と同様な、過剰な共有性=「わかりあいたいという過剰な欲望」が見えてしまう。

ネット系とオタク系の記事の受けが良い。それはヘビーなネットユーザーの傾向を反映しているのだろう。彼らに共感されやすい、あるあるネタ的記事と、既存権威への反抗的な内容が受けがよいようである。・・・このように考えると、ネットそのものはメジャーとなったが、ネット文化を支えるのは、かなり偏ったマイナーな世界ではないだろうか。ブログ、ブログと騒がれている割には、とても狭い世界のように感じてしまう。そして逆にいえば、受ける記事を狙えば書けるような気もしている。
[コメント]反響の大きかった記事について http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050708#p1

最近ではブログでも、ネット上支持を得るということは、この内部と外部の演出が重要です。たとえば、内部であることのあるあるネタと、外部の演出のために、マスメディア、権威、体制への差異(批判)。実に多くのネット上の人気記事がこのような構図をもっていますね。
[議論]電車男はなぜエルメスに恋をしたのか?  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050710#p1

せっかくの楽しいブログ生活なのだから、ぼちぼちいきましょい・・・
*1
*2

*1:この記事は「モヒカン族」ブームに乗っかろうという安易なものではありません。とはかならずしも言えません。

*2:画像元 http://www.sakachin.org/sakuhin.html