貨幣依存社会とナショナリズムと人工知能化 ハイウェイ論1

pikarrr2008-05-04


貨幣依存社会とハイウェイ


最近、救急搬送先の不足が言われている。この背景のひとつに、病院へかかる患者が増えている傾向があるという。病気が増えているわけではなく、核家族化し孤立化した中で、少し具合が悪いと、不安からとりあえず病院へいく、あるいは救急車を呼んでしまう。

以前ならば、大家族であり、地域コミュニティの中にノウハウが蓄積され、医者にかかる前にアドバイスが行われた。贈与関係が排除され、貨幣社会へと直結してしまう、社会がある。「お金があればなんとかなる社会」「お金がなければどうしようもない社会」すなわち「貨幣依存社会」である。

救急医療システムとは、道路でいえば高速道路(ハイウェイ)である。通常の道路は、歩行者、運送車などの人々の社会性と利便性を考えて作られている。高速道路はこれらを括弧に入れて、自動車の利便性に特化した超越的な道路である。しかし一般道路も、そのはじめには、通行という目的をより便利にする超越性を持ち得る。すなわち、道路だけでなく、送電線でも、情報網であり、様々なインフラは、利便性に特化した超越的な通路(パサージュ)としてある。

「貨幣依存社会」とはこのようなハイウェイ社会である。望む物すべてへの通じるハイウェイが敷かれている。お金さえあれば、手に入らない物はないのだ。お金は無限の可能性をあたえてくれる。しかしここで隠蔽されていることは、ハイウェイが敷かれていないところは存在しない、ということ。ハイウェイがないところ、迷い込めば、そこはなにが起こるかわからない場所である。だから人々は自ら、そのような可能性を見てみないふりをしている。それが貨幣へ依存する理由である。貨幣さえあればすべてがかなうという世界があるように振る舞うのだ。

ここに貨幣社会と言うイデオロギーとハイウェイ化された物質的な世界の共犯関係がある。言語(イデオロギー)は外部に通路として転写される。しかし通路の制作と言語(イデオロギー)の変化の速度には違いがある。言葉は容易に紡がれるが、通路の制作には環境を加工する労働(時間)が必要とされる。このために通路世界は独自の自立した世界を形成する。マルクスはそれを生産様式(あるいは交通様式)と呼んだ。資本主義社会とはだれも資本主義イデオロギーを信じていなくても、通路そのものが資本主義イデオロギーを信じている。だから人は好きなことをするだけで、通路を流れる。




中国人のナショナリズムと日本人のシニシズム


最近はチベット人権問題が話題であるが、見ていると気になるのが、中国人のナショナリズムである。中国政府が独裁的に権力を行使するというよりも、中国人民も含めて、国にナショナリズムを信じる力が溢れている。中国政府の権力者もまたそのような空気の体感者でしかない、のではないか、ということだ。

ポストモダンを生きて価値が相対主義かされて冷めたボクらからみると、それはとても幼稚で危なげな高揚に見える。しかしかつてもボクたち、日本人もオリンピックの頃、高度成長期はあのように熱かったのだろう。60年代の学生運動の世界的な連鎖をみると、ポストモダンに突入した、先進国も同じだったのだろう。いまの中国はかつてのボクたちなのだ。日本人はもはやオリンピックといって、あれほどに熱狂はできないだろう。しかし逆にほんの少し前まで、いまの中国人のようであったならば、その距離はボクたちが思うほど、それほど遠くないのかもしれない。

いまの中国人に見られるような熱狂、あるいはチベット人の果敢な抵抗が歴史をつくってきたのだろう。歴史的にみえて、ポストモダンシニシズムの時代の方が特殊なものだろう。このような高揚を、茶の間でテレビで見て、評論することができる日本人側のほうが不思議な状況である。そしていまもテレビに映し出されることは世界のほんの一部であることにかわりがない。中国政府が公開しないチベット暴動の真実も世界のほんの一部である。




人工知能化する日本人


中国人民の実生活の不満がナショナリズムへの力だとすれば、日本人はなぜ高揚せずに、内省するのか。中国人のように「〜がわるいからだ」と責任転嫁する力が湧かないのか。それは、中国人より日本人方が人工知能化しているからかもしれない。

ベタに人と世界の関係を認知系と行為系で考えれば、人工知能は認知して正しい答えを導いてから、行為する。だから「フレーム問題」に陥る。認知=世界を言語で描写することには限界がある。「動物」は言語を持たずに、認知よりも行為が先行する。それは無謀な行為ではなく、環境と従うことで世界を関係することができる。人もまた動物であり、人工知能のように認知して行為するわけではなく、認知行為し続けている。しかし認知が過剰になると、人工知能のように「フレーム問題」に近づく。ベタに言えば、「考えすぎは良くない」と言うことだ。

中国人の勢いは、認知系が先行する日本人には幼稚で、馬鹿な行為である。「中国は〜だ」北朝鮮は〜だ」と指摘することで、後進国を正しい方向へ導くことが先をゆく日本の役目であるかもしれない。このような認知系とは<観察者>として対象に距離を置くところに特徴がある。すでに確保されたリベラルな「正しさ」から語る。しかし生き抜くとは現場にかかわり、その場その場で対応し、自らを変化させていくこと、日本人はこの環境をいかに生き抜かなければならないことに鈍感になっているのかしれない。

このような日本人の「認知系」は、「貨幣依存社会」とつながるだろう。貨幣とは客観的な描写である。そのはじめに値札がついて価値が決定している。昔は様々な生活手段を自ら作り出したとすれば、完成品を商品として購入することは、世界との関わりを消失させる。人はただ金を払いハイウェイにのって移動する。生活手段を作り出すという行為を知らないために、お金がなくなれば、すべてを失ってしまう。

ハイウェイ化された社会の安全を信じることが重要であるのだ。以前からこのグローバル化した社会では食材は中国へ依存している。そして中国のいい加減さを考えれば、食の安全性の問題はそれほどに驚くべき事実ではない。それは気がつかなかったのではなく、気づかないふりをしていたのかもしれない。そしていまも多くの気づかないふりはあるだろう。それが認知系の限界である。ただテレビという情報のハイウェイによって提供されることで浮上する。

中国人の「行為系」は、日本人が「認知系」から見るのとは異なるのかもしれない。彼らは幼稚で、無謀であるが、間違えばやり直せばよいという「たくましさ」がある。食品問題への開き直りなども含めて、日本人から見た中国人を表す言葉は「厚かましさ」だろう。これはまた「たくましさ」でもある。それに対して、日本人は間違えてはいけないということに過剰である。その意味で今の日本人は国際社会に生き抜くためには、ナイーブすぎるのだろう。
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