精神分析的主体のオートポイエーシス 大光寺耕平(2001)

pikarrr2005-02-17

「カオスの辺縁」で象徴界は構造化される


ボクのラカン理解は必ずしも正当なものではないだろう。ボクなりの思考とラカンとを意図的に「混同」させ語っていることが、たぶんにある。それを強いて言えば、偶有性/単独性、自然/文化、生理/理性、そして現実界象徴界という相似性にある。さらにはラカン理論を動的に捉えたいということである。これによって、「人間のもつ、動物的層と(ラカン的な)言語的層という2つの側面が併存する」パースペクティブな視点に立つということである。

「カオスの辺縁」でエロビデオはワンパターン化する


現実界は、秩序なき混沌(カオス)であり、象徴界とは秩序化された同一反復の世界、変化を失った「死」の世界である。そして象徴界現実界の境目、「カオスの辺縁」とは、「対象a」に対応するだろう。

アダルトビデオに次々に投入されるAV女優の「溢れる汚物」が「カオスの辺縁」で欲望され、余剰を象徴化することによって、「商品としての女性」の価値構造は、自己組織的に構造化されながら、変化する。エロビデオはワンパターンに保たれながら、変化しているのである。そして象徴界は、このような一つの自己組織的なシステムとして作動し続けるのである。

続 エロビデオはなぜワンバターンなのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050118#p1

偶有性/単独性、あるいは現実界象徴界の両義性は対立ではない。そしてその両義的な位置があるのが対象aである。

そして、対象aとしての遺灰ダイヤモンドは、まなざしの快楽であり、まさに象徴的な「死」であり、イミテーションでしかない。そこにある「生」も「死」も偽物である。しかしそれが対象aであるときに、そこには現実界への扉が開いている。それは言葉にされることはない母親の「叫び」であり、そしてボクたちが感じる遺灰ダイヤモンドへの不気味さも、そこに現実界への扉をのぞき込んでいる故である。その意味で遺灰ダイヤモンドという魂は、「単なる」ダイアモンドではなく、「リアル」なのだろう。

続 なぜ人は「なんのために生きているのか」と問うのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050216#p1

このような試みは、すでに色々ある。たとえば斉藤環の「文脈病」ISBN:4791758714 、河本 英夫の「オートポイエーシスの拡張」ISBN:4791758072。そのうち、さらにボクの考えにとても近いものを見つけた。

精神分析的主体のオートポイエーシス(大光寺耕平)*1では、ラカン的な主体をルーマンオートポイエーシスシステムとして、再考している。そしてここでは、人間の<語る主体>と<動物的存在>という2つの側面を、構造的にカップリングとして捉え、ラカンの主体は<語る主体>の側から見ていると考える。ここで<語る主体>と<動物的存在>は、象徴界現実界と考えられ、その境界が対象aである。

システムの作動としては、象徴界において、<動物的存在>が対象aを通して、<語る主体>にとって処理しきれない偶然性をさしだす。象徴界に取り込まれる形式S1→S2で、隠喩的な新たな結合によって、自己準拠の脱トートロジー化を可能とし、象徴界の回路も組み替えられ、症候の再産出に結びつき、主体システムが作動する、と考えられる。

まさに、ボクがいうところの、象徴界は、一つの自己組織的なシステムであり、その「カオスの辺縁」=対象a象徴界は構造化され続けるに近いといえる。

しかし主体を自己組織的なシステムとして捉えるのは良いとしても、オートポイエーシスなシステム、さらに構造的にカップリングとして「はめ込む」のはどうだろうか。「主体」という境界を明確化しすぎるのではないだろうか。それはラカンの「主体」が、デカルト的な自己表象された自立した「主体」を根底に持つことに対応しているのではないだろうか。ボクが考えるのは、むしろ象徴界現実界、文化と自然、社会と環境の境界=「カオスの辺縁」に発生する(カウフマン的)象徴的な自己組織構造そのものが、「私」ではないだろうか。

生命が存在し、かつ進化してゆくためには、秩序(形態)の維持と新情報(新形態)の創発という相反する2条件がともに必要であるが、秩序相は形態の維持には好都合だが新情報の創造性には欠け、カオス相は情報の創造力に富むがともすれば秩序維持にはむかない、というディレンマが生じるのだ。そこで生命秩序にとっては、秩序維持と情報創発という2つの条件をともに満たす場として秩序相とカオス相との中間付近のきわどい領域が自己組織性全般のなかでもとりわけ重要な意味を持つ。この領域をカオス辺縁と呼ぶ。カウフマンによれば、このカオスの辺縁こそ進化能が最大となる領域なのである。

自己組織化とはなにか 吉田民人編著 ISBN:4623025608




精神分析的主体のオートポイエーシス 大光寺耕平

2.1 <語る動物>としての人間


人間の還元不可能な二重性・・・<生きること>と<考えること>の対立。理性的動物としての人間の<理性的>と<動物>という二つの側面の対立として,古くから哲学で論じられてきた問題でもある。

<語る主体>としての人間・・・精神分析学の対象。原抑圧をへて言語を獲得したあとの人間である.人間の心的な事象のすべてにシニフィアンの効果が浸透しうる。

<動物的存在>としての人間・・・行為の行動主義的なアプローチに典型的に見られる.刺激に対する反応としての行為が,より適応的であるために取りうる迂回路の大きさ(主観的には,思考プロセスの長さ・複雑さ)によって,知性という一種の心的な機能の水準を見て取ることができる。

しかし単純に,人間には動物的層と言語的層という2つの側面が併存すると実体的にイメージすることは、<動物的存在>と思われるものにすでに<語る主体>の欲望が読み込まれており,2つと思われたものが,1つの<語る主体>が鏡をのぞき込んでいるだけということになりかねない。問われなければならないのは,<語る主体>としての人間と<動物的存在>としての人間とが交錯している仕方である.

2.2 主体の境界としての原抑圧


精神分析学的<語る主体>・・・原抑圧によってなまの現実から切断された象徴の領域に参入し,シニフィアンの論理によって作動しはじめたあとの主体.

フロイトの原抑圧

①欲動の目標は,刺激の低減による満足であり,抑圧の第一段階としての原抑圧は,「欲動の心的な代表を意識に取り込むことを拒む」ことである。つまり原抑圧は,身体に由来するものを,精神分析的な主体のシステムからしめ出すのである.

神経症の症候は,欲動が不快な葛藤をひき起こす場合に,意識からの反発力のようなものによって,意識との結びつきを妨げられることによるものとされ,これは二次的な抑圧とよばれる.

フロイトが原抑圧という概念の両義性・・・はじめから心理的な領域の外部である生理的なものを導入してしまうか,心理的な領域に内在して,経験的には出会われない極限理念として要請するか.・・・原抑圧とは,自然の秩序から文化の秩序が立ち現れてくるところに位置する概念であり,精神分析学はこの概念を想定することで,自然の秩序に接しつつ,そこから区別された文化の秩序のがわに自らを位置づけている.

2.3 語る主体の作動


ラカンの構造のダイナミクス・・・象徴的なものを文化,現実的なものを自然と言い換えれば,文化の秩序はそれをはみ出した自然の秩序に接することで活動し続けている。

主体は原抑圧を経て象徴界を獲得するのだが,象徴界は,それだけ取り出せば,諸項の差異と結合の規則のたんなる集積にすぎず,いわば死せる構造,「アウトマトン(自動機械)」である.象徴界に参入することで設立された主体が作動するのは,象徴界から逃れていくもの=現実的なものとの出会い,「テュケー(偶然性)」の次元があるからである(Lacan 1973=1998).

現実的なもの・・・原抑圧の過程をくぐりぬけた残滓。「対象a」を通じて現れ,象徴的なものを通して,それを超えたリアリティの手応えに主体を結びつけていく.直感的にいえば,この現実的なものとは,われわれの心をひくもの,謎や問いかけ,それについてもっと知りたいと思わせるもの

象徴的なもの・・・このリアリティに出会うことで構造化していく動性を持ち,主体の語る生きたことばへと編成されていく。現実的なものへの誘惑に促されて,さまざまな象徴的なものを素材として動員し,主体の特性が負荷された,生きたことばへと組織化していくと考えられる.

例)<美的体験>によって引き起こされたディスクールの編成・・・主体が現実的なものによって活力をあたえられ,象徴界が再編されていく過程


①現実的なものは象徴的なものに還元できない.あることを<美的>であると言うことは,言説の中にどのように規定しても規定しきれない謎が存在することを示している.主体がかかわる象徴界は,たんなる機械的な秩序だけでなく,このような過剰な負荷をかけられた項をふくんでいる.それが主体にとって興味をひくものとして働きかけ,主体の作動を統制すると考えられる.この議論において,<美>というような実質的な内容を捨象して,形式的に象徴界における過剰を指し示す概念が,精神分析学における「対象a」である.

②美的な体験は象徴的な言説に還元できないにもかかわらず,その当の体験が,<美>という言葉で積極的に呼ばれているのである.つまり<美>とは,名づけがたい体験に与えられた名だといえる.それは,象徴的な解を与えることが不可能な問いとしての美的な体験に出会ったとき,問いそのものに名前をつけるということである.この名前は,ラカンの用語では,1番目のシニフィアンを意味するS1で表される.

③過剰な項に名前を与えることは,その本質の規定を保留にしたままで,実効的に取り扱うことを可能にする.はじめはその体験をするたびごとに,せいぜい“あ,また,あの体験だ!”と言うぐらいしかできなかったのが,その体験に名前をあたえることで,ほかの言葉との結びつきを作り出すことができる.名前をつけることによって,“美とは〜である”などと語り,論証を展開する可能性がひらけてくる.S1をこのように言説に結びつけることは,S1→S2という記号で表される.こうして,名づけることは,謎に直面した思考を座礁から救い出し,“美は美である”というようなトートロジーをこえて思考をつづけることを可能にする.

④われわれは,もともと説明しつくせない謎から出発したのだから,謎を名づけること,そしてそれに引き続く論証的な言葉は,最終的な解答=全体知ではなく,あくまで部分知でしかない.そうすると,はじめに問いの方向づけをおこなった美的体験と,解答として得られた“美とは〜である”という言葉にふくまれる<美>とのあいだには,ズレがあることになる.おなじ美という言葉でよばれていても,たとえば初めの体験は美1,解答では美2,と区別することもできるはずである.主体はこのズレを担わなければならない.主体を表すSに斜線が引かれているのが,それを表している.

⑤このようにズレが不可避であるにもかかわらず,部分知としての解答はけっして無意味ではない.この解答のあとも,美1は問いとして残りつづけるが,こんどはその問いに素手で取り組むのではなく,S2をふまえて,べつの仕方で探求をすすめることができる.結局,問いは解かれることはないが,新しく産み出された言説によって転位され,認識にとって新しい可能性が産み出されていることになる.

3 ラカンルーマンの構造概念


レヴィ・ストロースなどの構造主義・・・経験的な表層の構造の背後に,直接には観察されない深層構造があるという2層モデルを前提。

ラカンの構造・・・ルーマンオートポイエーシス的システム理論に親近的なもの。背後にひそむ実体としてではなく,具体的な発話が行われるさいの地平.

ルーマンのシステム理論でいうところの<要素>・・・要素という言葉を構造主義的にとり,隠喩的・換喩的な結びつきからなる構造の要素としてとれば,主体の要素はシニフィアンであるということになる.しかし,「要素」をオートポイエーシス理論の用語としてもちいるならば,再産出される要素は,シニフィアンではなく,<症候>である。症候は,シニフィアン同士の結びつきによって生じる<意味作用 signification>である。あるシニフィアン同士の結びつきが,つぎのシニフィアン同士の結びつきに接続されることによって,オートポイエーシス的システムとしての主体の要素=症候が再産出される.そして症候の接続可能性は,無意識の構造によって限定されている.

症候がつぎつぎに再産出されていく原動力・・・原抑圧をくぐりぬけた残滓,対象a。抑圧されたものは回帰して,症候を形成する.したがって,症候のオートポイエーシス的再産出は,原抑圧のむこうがわ,精神分析的主体にとっての環境に促されたものであるといえる.

3.3 環境と脱トートロジー


ラカン理論における主体をオートポイエーシス的システムとしてとらえたとき,<語る主体>とその外部である<動物的存在>の関わり。システム論的には,主体システムに準拠したときのシステム/環境関係のあり方。

①主体と対象の関わり・・・<幻想>という図式によって経験を構成し,対象を幻想のなかの役割にあてはめて処理する.

②<換喩=トートロジー・・・幻想は現実的なものの偶然性を隠蔽して,主体にとってなじみの型に還元する.そのとき,幻想のなかにあらわれる対象は,すでに周知の役割の置き換え=換喩として出会われることになる.しかし対象がその幻想の図式では処理しきれなくなることがある.これは他者がテュケー(偶然性)として現れてくる場合である.そのとき,主体はなじみの型をあきらめて,幻想を解体・再構築せざるをえなくなる.

換喩作用によってはトートロジーは乗り越えられない.たとえば「美」とは「われわれを感動させるもの」であると置き換えたとする.そのて「感動」とはなにか,と問われて「われわれが美しいものに対して抱く感情」であると答えたとしたら,結局トートロジーはそのままである.

③<隠喩=脱トートロジー化>・・・主体は,みしらぬ対象に,隠喩作用によって名前S1を与える.それがS1→S2と新たな結合を生み出すことによって,象徴界の回路も組み替えられることになる.システム論的にいえば,環境がさしだす偶然性―ルーマンの機能分析の用語をもちいて<複雑性>と呼んでもよい―をシステムが情報として利用することによって,システムの自己準拠が脱トートロジー化する

隠喩こそが有効な意味作用を生み出すものであることを考えれば,<精神分析的主体の要素=症候=意味作用=隠喩=脱トートロジー化>となり,オートポイエーシス的システムとしての主体において,自己準拠の脱トートロジー化が,症候の再産出に結びつくことになる.

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