脱構築を脱構築する その1 主体論編

pikarrr2008-02-17


デリダの構造論と倫理論


たとえば「日本人」を考えましょう。日本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。

デリダはこれを形而上学と呼びます。「日本人」というエクリチュールは、様々な場面の中で、その都度その都度、使われ、その都度その都度の意味を持つものでしかありません。「日本人」というような共有された同じ意味は、そのはじめ(過去)にあるわけではなく、あるようにふるまっているのです。

脱構築とは、このような形而上学に対して、多様な意味を浮き彫りにすることで、宙づりにする手法です。ここでは、デリダが明らかにしたコミュニケーションの構造と、脱構築という倫理的な手法を分けて考えられると思います。




ヴィトゲンシュタインの経済的コミュニケーション構造


デリダの示したコミュニケーションの構造は、ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論にとても近接しています。ヴィトゲンシュタインの問いも、なぜコミュニケーションは可能なのか、ということでした。

ある人がある人に「馬鹿」という。これはどのような意味でしょうか。「オマエは頭が悪い」「おもしろいやつだな」、実は独り言・・・これはそのはじめから決定されていません。コミュニケーションが成立してときに事後的に了解される、ということです。これをヴィトゲンシュタイン言語ゲームと呼びました。

これは経済的な行為ではないでしょうか。そのはじめから意味を共有することはできない。しかしコミュニケーションは成立させないといけない。同じものが共有されているようにふるいあう。実際に意味は曖昧に、あるいは間違って伝わることはは多々起こります。

このようなコミュニケーションの構造としては、デリダ形而上学と呼ぶような同じもの性は批判されるものではなく、経済的な行為と言うことができます。




ニーチェの収束と拡散論


デリダの思考は、ニーチェニーチェの系譜学に大きく影響されたと言われています。ニーチェは、道徳の系譜学において、道徳としてあたりまえとされる「真実」を、遠近法的(パースペクティブ)に分析することで、他でもありえることを示しました。そして同じものへ収束させる指向は、人間が本来持つ生物的な力であるとして、力への意志と呼びました。

これに対して、ニーチェの拡散の思想は、系譜学を経て、「忘却」に向かうのは、必然かもしれません。収束する力が、生物学的な力(力への意志)まで遡ったとき、もはや系譜学のような小手先の拡散手法では太刀打ちできない。「忘却」こそが、力への意志に対抗できる生物学的な拡散の力です。

しかしただ時間を待つと言うことではなく、ニーチェ「能動的な忘却」というややパラドキシカルな概念に向かいます。積極的に忘れる、とはなんでしょうか。忘れようとすればするほどに、意識するのではないでしょうか。

それは、多量の情報を受け入れると言うことです。発散とは、多量な情報を受け入れることで、形而上学的な同一性を忘却する。

デリダは、形而上学と解体することが倫理であるというニーチェの思考において大きく影響されていることがわかります。




デリダの狂気の世界


再度、拡散−収束をコミュニケーションの構造論として考えると、多量の情報にさらされ、意味が拡散し、コミュニケーションが失敗することをさけるために、意味の同じもの性があるようにふるまわれる。

そして拡散の可能性において、ニーチェよりも、ヴィトゲンシュタインよりも、デリダの思考は誰よりも強力です。これがデリダのまさに思想史に名を残す核心部分です。

デリダ「日本人」というエクリチュールの意味を無限の可能性に広げます。それはすでに誰かがいったということではなく、現前しなかったことを含めて、多様性を読み込むのです。

ここにあるのは、不確実性です。「日本人」というエクリチュールがどのような意味をもつかは、決して過去に決定されていたり、予測されたりするようなものではなく、予測不可能な不確実性へと発散するのです。可能性として、究極的に発散すれば、「日本人」は使うごとに意味が異なり、コミュニケーションが成立しません。それはもはや精神病的な世界です。デリダはこのようなことに言及していませんが、その狂気への可能性に、デリダ自身が恐怖する場面があります。




ベンヤミンの暴力批判論


「法の力」デリダベンヤミン「暴力批判論」について語ります。ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」「神的暴力」に分けています。神話的暴力とは、たとえは日本という法治国家において、その法を守られるために行使される警察の暴力であったり、新たな植民地を手に入れれば、そこで日本の法が守られるように行使される軍隊の暴力です。

それに対して、「神的暴力」は不思議な暴力です。

いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない


「暴力批判論」 ベンヤミン (ISBN:4003246314

前者(神話的暴力)が罪をつくり、あがなわせるなら、後者(神的動力)は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。……まさに滅ぼしながらも、この裁きは、同時に罪を取り去っている。……前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受け入れる


「法の力」 ジャック・デリダ (ASIN:4588006517

この神話的な暴力に対する、神的な暴力とはなにを意味するのでしょうか。ボクはそれはデリダが開いた究極の拡散による狂気の地点ではないかと考えいます。




神話的暴力/神的暴力


たとえば宇宙生命体が巨大な暴力をもって地球を浸食してきたとき、もはや「日本人」であること、さらには私が何者であるかなど、意味をもたないでしょう。あるいは「人間」であることも意味をなさないかもしれません。遺伝子がたかだか数%しか違わない猿の一部とに属するかもしれません。そこにあるのは、宇宙生命体/地球生命体の差異です。すなわち人間は「動物」となるのです。

たとえばライオンがシマウマを殺すことは、善でしょうか、悪でしょうか。どちらでもないでいしょう。この殺戮が人間の価値の彼岸にあるからです。善悪というのはあくまで人間内部の倫理でしかありません。

たとえば家畜を殺すことに罪の意識がないのはなぜでしょうか。それは彼らが「動物」であるからです。「動物」とは、人間の外部であり、善悪の彼岸にあるからです。宇宙生命体が地球を征服したとき、それはそれらの価値に支配されます。そこには何らかの価値があるかも人間には関係がありません。ウィルスのようにただ地球生命体に感染し、蝕み、繁殖するのかもしれません。そこでは人間の価値観は消失し、「動物」となるのです。善悪の価値などなく、ただ人は殺されるのです。

まさに人間の神話的暴力に対立する、この宇宙生命体の暴力こそが、「神的暴力」の一つの形態ではないでしょうか。そしてこれこそが究極的に拡散した世界ではないでしょうか。




デリダの尻込み


宇宙生命体があまりに極端であるなら、これは新大陸時代に西洋人が世界を植民地化した場面を想定することができるかもしれません。ある形而上学的な秩序によって保たれている共同体が、異なる秩序をもったより巨大な共同体によって、解体される場面です。

あるいはデリダホロコーストに神的な暴力の場面をみて、恐怖するのです。

最後に私は、このテクストに含まれるもっとも恐るべきものに注意を促しておきたいと思います。それは……あのホロコーストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表われとして考えることに他なりません。……ここでわたしたちは、あのホロコーストが法の罪の許しであり、『神』の暴力的な怒りと正義の、判読しがたい署名であったという解釈の可能性に震え上がり、震撼させられることになるのです。


「法の力」 ジャック・デリダ (ASIN:4588006517




収束−拡散の構造


整理すると、以下のようになるでしょう。これはあくまでコミュニケーションの構造論であり、なにが良い悪いという倫理的な問題とは別物です。再度言えば、情報が氾濫するなど、意味が拡散し、コミュニケーションが困難な状態があり、それを回避するために、(意味の)収束が起こる。ただこれはヴィトゲンシュタインデリダが示したことには、あくまでもあるようにふるまう「飛躍」であるということです。その究極的な拡散には「動物」しか残らないからです。

               (意味の)収束    −      (意味の)拡散
ニーチェ           力への意志            忘却(情報化)
デリダ             形而上学                差延 
ヴィトゲンシュタイン     言語ゲーム 
ベンヤミン          神話的暴力              神的暴力

ただ実際の動物は、先天的に決定された同一性をもっています。たとえば繁殖期になれば、誰に教えられるのでなく、遺伝子でプログラムされた的確なコミュニケーションを行います。人間のみがこのような動物的な完全のコミュニケーションを失った「断絶」がある。そして「断絶」を補完し「飛躍」するために、後天的に(意味の)収束が必要になるのです。

この「飛躍」こそが、動物にはない豊かな言語によるコミュニケーションを可能にしているといえます。そして人間のみに、共同体間(道徳と道徳の間)には、神話的暴力の対立(戦争)が起こります。ここに形而上学を解体するというニーチェデリダ的な倫理の必要性があります。




ラカンの主体論


このような人間のもつ「断絶」について、分析したのがフロイトです。フロイトは人間の性は倒錯しているといいました。動物は生殖のために決められた信号に反応するが、人間の性の趣向は、靴フェチや幼児性愛など個人個人で偏向し、多様というように倒錯的(フェティシズム)だ、ということです。

これは、ラカン「性関係は存在しない」につながります。人間には動物のようなプログラムされた的確なコミュニケーションが不可能であること、すなわち生殖のために行うという「正常な」性関係は失われている、ということです。

ニーチェは収束を力への意志としてその重要性を指摘しましたが、ここでラカン示すことは、根源的です。「性関係は存在しない」ということは、フロイトのように「断絶」があるということだけではなく、動物の性関係は生殖に根ざした生物的なものであるが、人間の性関係は言語であるということです。この「断絶」を繕うもの、すなわち言語こそが主体であるということです。

ラカンは、精神分析の主体は、哲学の伝統において構築されたような−言い換えれば、意識と一致するような−知の主体ではなく、根源的な裂け目−すなわちフロイト的分裂−を中心に組織されたような主体であると・・・出張している。P40

彼/彼女(子供)の唯一の頼みの綱は、言語のなかに安定した同一性を獲得する手段を求めて、象徴的なレヴェルへ転じることである。言語の法にしたがうことによって、子供は言語において主体となる。主体は、言語に住まい、言葉の世界を通じて適切な表象を得ることを望むのである。P46


ラカンと政治的なもの」 ヤニス・スタヴラカキス (ISBN:4907758103

ただラカンが言うのは、これによって、「断絶」が言語によって埋められ、完全なコミュニケーションが成立するということではありません。ラカンは、「主体とはシニフィアンの主体であって、シニフィアンによって決定されている」と言います。主体が「日本人」というシニフィアンを受け取っても、「生真面目」というシニフィアンへの送られる・・・という終わりのないシニフィアンの連鎖において、十全な「日本人」というシニフィエ(意味)には決して到達しません。だからこと、人は語らいつづけるのです。

ここに収束側の極限があるのかもしれません。たとえば日本人が「われわれ日本人というのは・・・」というときの同じものこそを求める運動が主体であるということです。発散の極限が「動物」であるなら、収束の極限が「人間(主体)」であるということです。

                収束    −        拡散
                人間(主体)           動物

(つづく)
*1