アウラな世界 その2 「上から二冊目の本」

「上から二冊目の本」


たとえばなぜ本を買うとき上から二冊目を買うのでしょうか。上から一冊目の本は多くの人の開かれているために、破れていたり、汚れていたりして、本の本来の価値、ソフトを読むということに支障をきたす確率がたかくなる。だから人はより高い安全性をもとめ、上から二冊目を買う。このような推測は成り立ちますし、実際にそうかもしれません。でも現実に、それほど品質がそこなわれた経験がそんなにあるでしょうか。これは本に限らず、「上から二冊目の本」という行為はみんなが儀礼的に行っていますが、これだけで説明するのは困難ではないでしょうか。

それよりも単にわれわれは「新しいもの」、「だれも開いていないもの」を好むと考えた方がよいのではないでしょうか。それは本の中身というソフトは同じでも、一冊目にくらべて二冊目は、だれかに開かれていないだろうという期待があり、人に開かれることによって、価値が減算していくという価値観が存在するのではないでしょうか。だれも開いていないという唯一性が最高の価値です。そしてこの唯一なものを所有しているのは、私、唯ひとりであるということが、私の単独性への欲求を満足させているのです。上から三冊目、四冊目の方が、だれにも開かれていない確率が増すかもしれませんが、大量に複写されている本には二冊目程度を抜き取る程度までの価値しかないということでしょうか。

たとえば骨董品やヴィンテージものの価値も同様に唯一性です。かつて大量に作られたとしても、現在において多くは消失され、それは世の中にわずかしかないということに価値が持たれます。ここでは世の中で他にないという唯一性が価値をもち、また人々がそれを欲しがっている事実によって、さらに唯一性は高められます。この唯一なものを所有しているのは、私、唯ひとりであるということが、私の単独性への欲求を満足させるのです。

たとえば有名人をみて「オーラ」を感じるとは、その有名人が多くの人に好まれる存在であるという単独性を、あなたが見いだすからです。あなたは、みんなに有名人をみたことを自慢するでしょう。コミュニティで高い単独性の人をみたことを、みんなにうらやましがられることにより、コミュニティ内であなたの単独性は高められるのです。



減算する処女と加算する童貞

たとえば、異性間の恋愛においても、コミュニティ内で多くの人に好かれる異性に惹かれる傾向があります。多くの人に好かれることによりその人の単独性は高められます。そしてそのような異性とつき合うことは、自己の単独性を満足させます。しかしSEX的なものについてはこれとは違う価値が働いています。多くの人に引かれる人は高い価値をもつが、特に女性の場合に多くの人とSEXする人は価値が低くみられます。たとえば売春婦が軽蔑されるのは、それは一番上の本のようにみんなに「開かれた」ことにより単独性が低下していると考えられます。

この違いは、他者に惹かれることは加算的に価値が積み上がるのに対して、SEXすることは、減算的に汚れていく、価値がさがっていくという考えがあります。男性に多い処女信仰は、女性のSEXは価値が減算されていくものということから来ています。だれともSEXしていないという唯一性が最高の価値です。逆に女性が男性の童貞を好まない傾向は、男性のSEXは女性の場合と異なり、価値が加算されていくことを表しています。

加算は、主体性です。偶有的な存在が経験によって、その人の個性として単独性を高めます。主体の経験が自己価値を高めていくのです。しかし減算は客体性で、所有されるものです。客体は主体によって選択されることを前提にしています。偶有的な存在が主体の選択によって、その人の個性として単独性を獲得します。女性は選択されやすいようにSEXをしないことが求められるのです。これは男尊女卑的な社会コミュニティの価値観であり、現在において変化してきていますが。



虚像価値

たとえば、母の形見の価値は自己の思い入れです。このように他者にはわからない個人的な思い出の品、あるいは思い出という無形物の価値があります。これらは、コミュニティへ共有されない個人に強く根ざした価値です。しかし母は唯一の存在である、死は唯一のものであるという価値はコミュニティに共有されているものです。その人の母の形見はその人にとって唯一のものであっても、「母の形見」、「死」の価値自体はコミュニティに内在する価値です。

記号コミュニティは人がそのような記号コミュニティが存在し、そのような記号コミュニティに帰属している人の意識によって支えられています。「上から二冊目の本」の価値、骨董品の価値、有名人の価値、母の形見など、価値は記号コミュニティの価値であり、そのような価値が存在するという虚像的な価値です。人はそのような虚像的な記号コミュニティの中に単独性を見出だすことにより、自己の価値を求めるのです。そして思い出であれ、処女信仰であれ、偶有性から単独性への転倒がおこるとき、そこに神が介在されます。



アウラという単独性

ベンヤミンはオリジナルの芸術作品が一回性、唯一性を感じさせる人工物であり、「礼拝価値」としてアウラと名付けました。そして近代以降の複製技術の発達は、アウラを消滅させたと論じました。

かつてオリジナルの芸術作品の唯一性は、高い価値をもち、神聖化されました。これは、その芸術作品にアウラを感じる人が、その作品を通して、記号コミュニティの虚像的な価値を過剰に読み込むということです。そして人はそのような読み込みによって自己の単独性を求めようとするなら、現代という複写技術の時代においても、シミュラークルの中にアウラを見いだそうとしているのと考えられるのではないでしょうか。たとえばある映画は大量に複写され、ビデオとして世界中にばらまかれて、オリジナルという概念が失われても、人々はその作品との出会いに、「運命」を感じれば、そこにはアウラがあるのではないでしょうか。