アウラな世界 その3 小さなアウラの消費

生命とコミュニティ


生命は個体としての単独性を維持する傾向があり、生命コミュニティはコミュニティとして単独性を維持しようとする傾向があります。このコミュニティとして単独性を見いだそうとする傾向とは、個体がコミュニティの一部、すなわち偶有的な存在なることを示しています。故に、生命には個体としての単独性を維持する傾向とコミュニティの偶有的存在と維持しようとするパラドキシカルな存在なのです。

このようなパラドキシカルな位置は、コミュニティの単独性という秩序を動的なものにする「意味」があるのではないでしょうか。それはコミュニティの外、すなわち環境のドラスティックな変化への対応し、コミュニティを継続する力となっています。

生命のこのような単独性と偶有性は、種によってバランスをとっています。進化上の傾向として、人はもっとも単独性の高い生命でしょう。生命機能(新陳代謝、自己複写)の獲得、細胞膜による環境との境界の設定、自己移動という環境からの離脱、自己判断、そして自己認識の獲得。このような進化上の変化によって人は高い単独性を獲得しました。

自己認識の獲得後においても、時間的、空間的において個体が偶有的な存在であることは、逃れられない根源的な特性でしょう。地上に存在した人類群を一つのコミュニティであり、個体であると考えたときに、一細胞でしかなく、それは私でなくても、誰かがそこに存在した細胞です。



生命システムの完結性

ならばなぜわれわれは自己認識を獲得しなければならなかったのでしょう。仮に「進化」の意味が「繁栄」にあったとしても、「高等」であることが優位であるという必然はないでしょう。進化は人間を目指して「進んで」きたわけでもなく、ただ自己認識は獲得されたという事実しかないでしょう。このような状況の中で、われわれは自己の単独性を維持しようとする傾向があります。

このような単独性は、人間の存在そのものによって達成されています。われわれは根源的な欲求を満たすことによって個体として維持されしつづけるように構成されています。すなわち生理システムとして完結された存在であり、そこに単独性が存在します。

自己認識が獲得する前はそれで単独性は達成されていたのではないでしょうか。たとえば人間以外の生命は、生命システムの維持が危機に瀕する場合、空腹である、病気になる、外圧を受けるなどに対して、強い抵抗を試みます。それは自己の単独性が脅かされるためためです。さらには彼らはこのような生命システムの維持に、生涯の多くを費やし生きています。このように自己が維持されている以上は単独性を「疑う」ことはありません。



生理システムの維持

われわれにおいてもこのような生命システムの維持への危機に対しては、強い抵抗を試みます。現代のように低次の欲求(衣食住のような)が満たされている時代にはそれはまるで意識されないものになっていますが、危機的状況になれば、自分でも思いがけないほどに生理システムとしての単独性への強い固執を試みるでしょう。

私の予想では、かつてわれわれがまだ生理システムの危機を危惧していた時代には、われわれは逆説的にそこに充実した単独性をえていたのではないかと考えています。そこでは生命システムの維持のために、コミュニティが重要な意味を持っていました。コミュニティが高い「社会性」をもって機能することが、人々の低次の欲求(衣食住のような)を満たすために不可欠でした。現前する隣人と助け合うことが大きな意味をもっていました。そしてより大きなコミュニティでは、強力な指導者による中央集権によって、社会全体が高い秩序性をもって運営され、人々は偶有的な存在でいます。それが生命システムの維持という個体の単独性を満たすために必要であったのではないでしょうか。



孤独な群衆

物質的に豊かで、低次の欲求(衣食住のような)が満たされた現代において、生理システムの維持が単独性を満たすのは、スポーツにおいてぐらいでしょう。非労働として行われるスポーツによる充実感、高揚感は、生理システムを擬似的に危機的状況に追い込むことによって、単独性を勝ち得る効果があるのではないでしょうか。

現代では、生理システムの維持によって単独性が獲得されません。また低次の欲求(衣食住のような)が空気のように満たされる社会において、現前の隣人の助けも必要がなく、社会コミュニティへ偶有的に帰属する必要も希薄になっています。すなわちいまの状況は、生命史においてもっとも個体が単独性を持ち得る時代であるといえます。それがまさに現代における「私は何のために生まれてきたのか?」という過剰な問いであり、「夢をもとう」というスローガンです。すなわち単独性に対しての飢餓の時代であるといえるでしょう。

たとえばリースマンが「孤独な群衆」という時には、そこには低次の欲求(衣食住のような)が満たされ、社会コミュニティへの帰属意識が希薄になって「孤独」になっているということもあるでしょうが、そのような中でいかにコミュニティの中に単独性を求めればよいか困難している姿をを示しているのではないでしょうか。街に人は溢れている。しかし孤独である。私の居場所(私が私である場所)はどこであるか?それが孤独な群衆です。孤独な群衆は、本来コミュニティ内の偶有的な位置に対して、単独性を見いだすことであり、それは「コミュニティにとっての私の意味」、または「他者にとっての私の意味」をとらざる終えません。



小さなアウラの消費

それは誰かが私を必要としてるという虚像的な位置を演出する方向へ向かっていように思います。現代においてコミュニティを演出するのは、権力者ではなくマスメディアと消費です。大量な人々に共時的に同じ体験をさせることによって、虚像的にコミュニティを作りあげます。人々はそのような記号コミュニティが存在し、そこに帰属していると意識することによって、さらにコミュニティは実体化していきます。そこでは消費がコミュニティ帰属の「証」となります。

消費は、単に商品の本質的な機能(冷蔵庫ならば、食品を保存する)を獲得するために行われるのではなく、たとえば「中流階級」という記号コミュニティへ帰属のための「証」として行われます。それはコミュニティへの帰属、そしてコミュニティ内に私が私である位置、すなわち単独性を見いだすために行われます。それは「小さなアウラ」の獲得です。小さなアウラを消費し続けることにより、私はコミュニティ内に私の位置を見いだしそうとし続けるのです。マスメディアと新しいコミュニティを演出しつづける限り、消費は際限なく繰り返されます。保有する冷蔵庫の機能に問題なくても、最新の冷蔵庫がほしくなります。

ベンヤミンは、複写技術によって消滅する心的な現象を「アウラ」と呼びました。しかしそれは対象に備わる神的な性質ではなく、集団内で対象にいだく信念のようなものであり、一種の共同幻想であると考えられます。*1芸術作品に見いだされるアウラは、このように一つしかないという物理的な唯一性を元にしているとしても、その本質はコミュニティ内で貴重なものであると承認されたものであり、その貴重さは人の理解を超えたもの、「奇跡」であると了承されます。そしてそれを鑑賞することに授かったことは、「運命」です。すなわちこのような偶有性から単独性への転倒、世に溢れる芸術作品の一つが人智を越えたもの(奇跡、運命)と読み込まれることにより、神格化され「礼拝価値」を持つのです。そして鑑賞するものが鑑賞することによって、選ばれたものとしての高い単独性を獲得するものです。

すなわち、われわれが消費に見いだすのは、それが複写技術によって制作されたものであったとしても、「小さな運命」によって、「小さな奇跡」に出会うという、小さなアウラを見いだすのです。それは記号コミュニティによって承認されているものであり、そこで私は「小さな単独性」を見いだすのです。それが現代における私の意味を獲得する方法となっているのです。

*1:ベンヤミン「複写技術時代の芸術作品」精読 多木浩二