アウラな世界 その4 神の発明
転倒される神
- なぜ人は誰かに演出された相手よりも、運命の相手と出会い恋することを夢見るのでしょうか。
- なぜわれわれは「神」を信仰していなくても、日々物事がうまくいうように祈るのでしょうか。
- 現代において「オーラ」ということばがもっとも使われるのは、有名人かもしれませんが、浜崎あゆみなどのカリスマ性とはなんでしょうか。
- 理想の美女に出会い、夢のようなSEXをする。 しかしそれがマトリックスの世界であったことを知ったときに主体の中で、失われるものはなんでしょうか。
運命の出会いとは、街の中の多くの中のひとりであった偶有的な人が、自分にとっての特別な人になることです。そして特別な人と出会うことにより、私が特別な存在になるということです。ここに見られるのは「偶有性から単独性への転倒」です。恋をすることによって人は偶有的な存在から、単独性を見いだすのです。これは特別な存在でありたい、私の意味を求めるという根源的な特性です。そして運命とは人間の意志を超越した力が働くことを意味します。主体の中でこのような偶有性から単独性への転倒が読み込まれるときに、その転倒の意味づけとして、人間の意志を超越した力=「神」が捏造されます。ここでいう「神」とは、宗教によって具現化されている神ではなく、抽象的な神性であり、そこに礼拝的な価値が生まれます。
物事がうまくいうように祈ることも、そこに成功するという偶有性から単独性への転倒が見られます。そしてここでも神は捏造され、祈っているのです。カリスマとは特別な人です。それは特別な技術をもっているということであったり、多くの人々に指示されている人であったりします。野球の神様、ゲームの神様、カリスマ美容師、カリスマ浜崎あゆみなどなど、現代は「小さな神」が多く作られる時代ですが、これらは彼らがそのような神性を持っているというよりも、主体が彼らにそのような特別な存在を読み込み、彼らを信仰することで主体自身も特別な存在になるということです。そして神は捏造されます。
理想的な美女との出会いは、「理想的」、「美しい」、「出会い」という主体の読み込みです。それは運命であり、奇跡という神性をもって現れます。そのような特別な女性とSEXすることにより、主体が特別な存在になります。しかしそれがマトリックスの世界であるとわかったとき、偶有性から単独性へと転倒が暴露されます。そこに誰かの作為が入っているということは、理想的な美女の神性は汚され、そして主体の単独性も汚されるのです。
最高の完成度をもつ複製の場合でも、そこにはひとつだけ抜け落ちているものがものがある。芸術作品は、それが存在する場所に、一度限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。・・・オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、真正性の概念を形成する。そして他方、それが真正であるということにもとづいて、それが現在まで同一のものとして伝えてきたとする伝統の概念が成り立っている。・・・複写技術時代の芸術作品において滅びてゆくものは作品のアウラである。(「複写技術時代の芸術作品」ヴァルター・ベンヤミン)
再度、ベンヤミンに言及しますと、ここに示されているアウラとは、かつての芸術作品に見いだされた唯一性であり、それが真正性として、いま在るということです。そしてベンヤミンは、複写技術の時代の(現代の)芸術作品にはもはやこのような真正性は、アウラは失われているといいます。これは芸術作品に普遍的な真正性があるということではなく、芸術作品の真正性を要請するような伝統の上に芸術作品がたっているということです。そしてアウラの消失とはそのような真正性を保証する伝統が失われているということです。
ベンヤミンは芸術作品はこのような伝統によって礼拝な価値があるといいます。これはまさに偶有性から単独性の転倒の構図です。多くの芸術作品という偶有性、あるいはそれは色素が並べられたという偶有性が、「大きな物語」を持ち得た時代の多くの人々が礼拝的な価値を読み込みつづけた事実により、主体はそこに真正性を感じるということではないでしょうか。そしてこのような重み付けにおいて捏造されるのは、「小さな神」ではなく、限りなく絶対的な神です。ベンヤミンがいう複写技術によってアウラが失われたとは、リオタールが言ったの「大きな物語の終焉」とほぼ同じことを言っているのではないでしょうか。
神の発明
人はコミュニティの中の偶有的位置から自己を見出だそうとします。それは偶有性から単独性への転倒により行われ、転倒は運命、奇跡という神を捏造します。このとき神格化される対象が主体にとってのアウラです。人は日々神的体験として「小さなアウラ」を積み上げながら自己を獲得していくのです。この「小さなアウラ」は、コミュニティ内で単独性を見いだすことであり、それはコミュニティへつながっています。それがコミュニティとして、一つの方向性を持ったときに、「大きな神」は作られ、宗教として価値化されます。
人類史には様々な神が作られてきました。アニミズム、自然崇拝、多神教、一神教などなど。神のいないコミュニティなど存在しません。このようなコミュニティの神は、その時代のコミュニティ形態に対応する形で作られてきたのではないでしょうか。たとえばなぜ一神教という絶対的な神が必要とされたのかは、それが他の民族からの強い圧力があった、あるいは暴君への強い抵抗を根底にしているというような、コミュニティが強くまとめる力が働いたということではないでしょうか。
消費という信仰
現代はコミュニティ形態が虚像化し、強い帰属意識による統一されたコミュニティが形成されにくくなっており、かつての「大きな神」は信仰されることが困難になっています。すなわちベンヤミンのいう「アウラの消滅」の時代です。それでも人が自己の単独性を見いだそうとすることは根源的です。宗教を信仰していなくとも、人は内的に神的な体験をします。われわれは日常の中で沢山の小さなアウラが見いだすのです。
それは現代では消費によって行われているのではないでしょうか。われわれが消費するということは、その商品の本来の機能を購入するのではなく、小さなアウラを所有することです。商品を手に入れるということは、(虚像的な)記号コミュニティへの帰属の証であり、そして記号コミュニティに自分の位置をみつけるという偶有性から単独性への転倒であり、商品に小さなアウラを見るのです。
アニメであり、ファッションであり、アイドルであり、家電製品、さまざまなものに人は小さなアウラを見いだしています。そして現在の消費でコマーシャル、デザインが重要とされるのは、小さなアウラを演出する方法だからです。現代においても人は日々神的体験として「小さなアウラ」を積み上げながら自己を獲得していくのです。