なぜ盗んだバイクで走り出すのか?

pikarrr2004-12-03



静的リアリティ=現実、あるがまま
  

先日、深夜に、「史上最大!芸能人の(秘)ズレ度大調査」という番組を見ました。数人のタレントと会場の素人500人に同じアンケートをして、タレントの常識のズレを楽しもうという主旨のものです。アンケートの内容は、「恋人の歯ブラシを使えるか」とか、「恋人の携帯を見ても良いか」とか、「15分の距離では、電車に乗るか、タクシーに乗るか」などなどの日常の中のことです。この手の番組の面白さは、自分の「正しさ」がみなと同じか、違うかという発見が、あることでしょう。

これは、「正しさの境界」ということです。人に内在する「正しさ」は、「みなと同じだろう」ということに依存しています。このような「みなに共有されているだろう正しさ」を主体の内面に形成するのが、「まなざしのネットワーク」に帰属し、「まなざし」を内在化するということです。この「正しさ」は、それを疑う以前の、あるいは「正しい」と思う以前の「正しさ」です。すなわちこれが正しいと意識する以前の正しさであり、それが日々の「リアリティ」を支えています。

たとえばこの例が信仰です。信仰とは、教義的な「まなざし」を内在化することです。信仰者はその「正しさ」を疑うことがないほどに内在化します。そして、ボクたちの「正しさ」は、多かれ少なかれ信仰的なのです。




動的リアリティ=今、唯一のこれという実感


このような「リアルである」と意識する以前のリアルさを「静的なリアリティ」と呼ぶと、静的なリアリティは、それをリアルであると感じない故にリアリティを支えられているが、それ故に、リアリティの実感をもてないということも起こります。それに対して、ボクたちが意識するリアリティ=「今唯一のこれという実感」「生きている実感」「動的リアリティ」と呼べるのではないでしょうか。動的リアリティは、静的リアリティ=「正しさ」を破るところに現れます。

たとえば、不良少年がバイクを盗んで走り出す時、不良少年は、日常という静的なリアリティを破り、生きている実感という動的なリアリティを求めているのかもしれません。彼は、ただ感情的にバイクを盗んで走り出しているのではなく、「バイクを盗むこと」も、「スピード違反」することが悪いこと、危ないことだという「正しさ」を内在している故に、その「正しさ」を破ることに、「今唯一のこれという実感」を味わうことができるのです。




少年は捕まるために盗んだバイクで走り出す


しかしバイクを盗んで走り出した少年が、本質的に求めているのは、正しさを犯すというスリルだけではないかもしれません。彼が求めているのは、内在する正しさの承認ではないでしょうか。正しさを犯し、それが破綻する=捕まり、「盗んではダメだろう」という怒られることによって、彼の中の「バイクを盗むことも、スピード違反することが悪いこと、危ないことだという正しさ」が承認されるのです。逆説的に彼の「正しさ」が承認されるのです。だから不良少年はつかまるために、盗んだバイクで走りだすのです。

浮気は、間違っていることを行うスリルによって行われるのではなく、間違っていることを承認されるために行われます。すなわち見つかるために浮気は行われます。それによって「恋人、あるいは妻一人を愛することが正しい」と言うことを承認されることを求めています。この愛がリアルであるということを確認したいのです。だから浮気は必ず見つかるのです。

これは、「タブーは破られるためにある」、ということに繋がるのではないでしょうか。少し前を振りかえると、なぜこれが「正しい」とされていたのか、ということが多くあります。たとえば、50年代ロックミュージックが出た頃は聞くだけで騒音、下品、不良などといわれていましたが、いまやコマーシャルにジミヘンが違和感なく使われています。このような正しさの時間的な変化は、動的リアリティと静的リアリティを内在したリアリティの新陳代謝システムとして行われているのです。

そしてこれを駆動しているのは、動的なリアリティへの渇望であり、さらには逆説的に正しさを確認するためにタブーは破られるということです。




なぜ人々は見られたいのか?


さらに現代的には、「なぜ人々は見られたがるのか?」ということに繋がるかもしれません。たとえば、社会の劇場化などといわれます。人の行為がパフォーマンス化している、目立つことを望まれます。ネットではホームページやブログで日常が積極的に公開されます。また暴走族、成人式などで暴れる若者は、体制に批判があることではなく、単に目立ちたいだけです。

これは、現代、静的なリアリティ=「何が正しいのか」という社会的なリアリティが崩れて、「まなざし」を強固に内在化させることが難しくなっているためです。そのために他者の反応を見ることによってしか、リアリティを持ち得ないのかもしれません。

万引きは、買えない欲しいものがあるから行われるのではなく、またスリルのために行われるのでもなく、万引きは他者に見つかりたい故に盗むのです。見つかってそれが悪いことであるということが承認されたいがために行われるのです。そして暴れる若者は、それが間違っていると注意され、捕まるために暴れるのです。


ボクですか、チャリを盗まれて、困ったものです・・・