なぜまなざしは苦痛なのか?


ぴかぁ〜さんに質問です。


「自分は十代の頃、ものすごい自意識過剰でした。誰も自分のことなどさほど見てないし、気にかけてすらいないのに、自分は常に「他者のまなざし」を過剰に意識してました。二十歳を過ぎた頃から、やっとこの過剰な自意識から少しずつですが、解放されました。でも、今でも周りの人と較べると、やはり「他者のまなざし」に、自分はかなり敏感なようです。先日、それをずばり指摘されました…。

>「まなざしの快楽」は、他者との関係性、コミュニティの中の位置によって、私が何ものであるか承認される快楽ではないだろうか。*1

好意を持っている人のまなざしは「快楽」に通じますが、そうでない人のまなざしは「苦痛」に感じます。この他者からの「まなざし」の持つ相反性について、教えてください。」




まなざしの拘束


ボクは精神科医でもなんでもないので、パーソナルな悩みに答えることはできませんが、現代では、まなざしは快楽故に、むしろ苦痛であることが多いですね。

まなざしの構造はフーコー「規律型権力」と同じ構造であるといったように、他者のまなざしは自己に内在し、拘束力を持ちます。たとえば、自分の趣向で派手なファッションをした場合に、社会コミュニティ内では特異であり、白い目でみられて不快になることがあります。しかしこの「白い目(まなざし)」は、街を歩いて感じるものではなく、このファッションで街を歩くと、「白い目(まなざし)」で見られるだろうということは、すでにその始めに自分の中にあります。それは私たちが社会コミュニティ内の一員であり、規制型権力の中にいるからです。

たとえば一人で外食をするときに、「一人で食事するやつはさびしいやつ」という「正しさ」がすでに内的に存在しています。それ故に店内の他者のまなざしは不快なものに感じてしまします。それは本当に他者がじろじろ見ていると言うことではなく、自意識過剰な内的なまなざしです。

たとえば個人で経営し気さくなママさんがいるお食事屋さんでは、そこはママさんという他者のまなざしの場です。彼女はなわばり意識があり、客には現前化するまなざしを向けるでしょう。そのようなまなざしが、、「一人で食事するやつはさびしいやつ」と思われているんではというような、自意識過剰な内的なまなざしを生みます。そのような緊張を解消するために、ママさんは話しかけてくるかもしれませんが、それはまた「まなざしに拘束される」意味でもあります。

単に物理的な近いと言うだけで現前化する他者のまなざしは、倫理観に繋がる規律によって拘束しようとするものであり、さらに変化速度はきわめて遅いです。それは、親のまなざしであったり、先生のまなざしであったり、「世間」のまなざしであったりしますが、それはすでに私の中に内在して、「私が何ものである」の承認の大きな一部です。




消費というまなざし


たとえば、アニメオタクは、「アニメ」という商品を通して「まなざしのネットワーク」に帰属しています。そこにはその「まなざしのネットワーク」に帰属する他者たちがいて、まなざしを交換しあっています。このまなざしとはほんとうにそのような他者たちが現前化してコミュニケーションしたということではなく、いるだろうということで成立しています。だからまなざしの交換はその「アニメ」をより知る、アニメのディテールに過剰に思い入れをすることによって行われます。

情報化社会で、若者が熱狂するものにはいくつかの共通点があるかもしれません。それは、新陳代謝が早く、激しく、創造可能なものです。たとえばPC関連、マンガ、アニメ、アイドル、タレント、ファッション、音楽などなど。このような商品へのフェティシズムは、まなざしを多様で、スピード感が得られやすいものとしてます。

この消費社会のスピード感は、「マイフェイバリットからマイブームへ」の変化でも見られます。情報が加速した現在では、もはやフェティシズムの対象を長期間保つことができず、流行(ブーム)としてつぎつぎに消費し、「私が何ものである」の承認=自己同一性という快楽をえ続けるのです。「まなざしのネットワーク」「正しさ」をつくり、閉塞します




まなざしの差異


ボクは「他者回避」について語りました。

たとえば、人々は、マクドナルドのようなファーストフードや、ファミレス、コンビニのような他者と関わることが少なく場をもとめ、「動物」のように欲求をみたしている、ということです。・・・ボクはこのような「他者回避」を次のように考えます。シミュラークルな世界では、すでに主体は「まなざしのネットワーク」に帰属し、「まなざしの快楽」を得ています。「まなざしのネットワーク」は、主体によって見られたいように見られるまなざしであって、現前化する他者の存在は興ざめであり、回避されます。マクドナルドの店員はスマイル0円で、決められた対応するシミュラークルの一部であって、「他者」ではありません。
「なぜディズニーランドは楽しいのか?(中盤)」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041120

単に「ママさん」のような他者のまなざしが拘束的であるために不快であるということではありません。私が私であるためには他者との関係性が必要だからです。それが絆とみるか、拘束と見るか、そのときに主観的な問題でしかありません。親の小言がうるさいと思うか、小言を言ってくれるのは絆があればこそと思うか、は主観的な見方の問題です。

そうではなくて、他者のまなざしが苦痛なのは、ボクたちは、「消費」によって加速化されたまなざしの快楽を味わっている中で、社会コミュニティ内の現前化する他者のまなざしはその快楽のスピードを妨げるように現れるために、不快なのです。さらにはもしかすると、商品へのフェティシズムによって支えられる「私」はとてもナイーブなものなのかもしれません。それ故に現前化する他者のまなざしは一つの恐怖として移るのかもしれません。

子供は自分自身と他者の中間に位置する鏡のなかの像と「戯れる」。消費者にしても同じことで、項目や記号を次々と変えて自分を個性化する過程を「演じている」。子供とその像の間には何の矛盾も生まれない。消費者は自分がもっているモデルのセットとその選び方によって、つまりこのセットと自分とを組み合わせることによって自己規定を行う。この意味で、消費は遊び的であり、消費の遊び性が自己証明の悲劇性に徐々に取ってかわったということができる。
「消費社会の神話と構造」ボードリヤール ISBN:4314007001


十代の頃はだれでも自意識過剰ではないでしょうか。私とはなにか?ということにどん欲な時期ですから、過剰にまなざしを求めます。しかし現代の情報化社会では、まなざしは多様で、過剰で、シミュラークルですので、ある種の苦痛を伴うのは致し方ないのではないでしょうか。

それが、フェティシズムの対象が固まり、情報化に少し冷静に見ることが出いるようになる、また就職する、家庭を持つなどによって、社会的な「正しさ」に帰属していくのかもしれません。そのようにして少しづつ私の位置を見いだしていくのではないでしょうか。

*1:「なぜ島田紳助は泣いたのか?」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041106