なぜ人は必ず恋をするのか?(ラカンとデリダの鏡像関係)

pikarrr2004-12-10



デリダラカンの鏡像関係


デリダラカンは鏡像関係にあるのではないでしょうか。デリダは、言語の意味を特定するのは、不可能性であるといいます。エクリチュール(文字)には反復可能性があり、その意味はコンテクストごとに意味(散種)をもちえるからです。そして一般的な言語意味(多義性)は、このような無数の意味(散種)が、事後的に収束されたものである、といいます。東はこれを「散種から多義性への転倒」と呼びました。*1

ここから脱構築、および差延があらわれます。脱構築とは多義的に決定された言語、言説は形而上学であるから、この読みなおしを行う、散種的な次元、隠された、または失われた意味を暴露しようという戦略です。差延は、差異という静的な構造に対し、反復されるたびに、おなじところにこない散種的なズレを動的な構造として指摘したものです。それによって様々な形而上学的な言説、思想を解体することがデリダの戦略です。

デリダラカンを様々に批判してきましたが、ここにある構図の根底はラカンの構図と対置できるものではないでしょうか。散種という意味の不確定性/混沌とした想像界、事後的に決定された多義性/秩序ある象徴界という対置であり、ボクはここに「偶有性から単独性への転倒」を見ます。




偶有性から単独性への転倒


ラカンは、本当の世界は混沌としたカオスの世界(カントの物そのもの)だといい、これを現実界と言いました。しかしわれわれは世界を、秩序ある世界として見ています。これは動物が見たようなイメージの世界(=想像界)が象徴界によって支えられているからです。象徴界は言語世界です。人は世界を言語として認識することによって、世界を秩序あるものとして認識できます。そして、それが人が人であると言うことであり、社会的な存在であるということです。

このようなラカン的な想像界象徴界の関係、そしてデリダ的な「散種から多犠牲への転倒」を、ボクは「偶有性から単独性への転倒」と呼んでいます。無数にあるうちのたまたまの一つ=偶有性が、唯一の一つ=単独性であるように、捏造されることです。そしてこの転倒では、かならず超越性(=神性)が要請されます。たとえばラカンにおいては、象徴界大文字の他者であり、デリダでは、形而上学(あるいは否定神学)です。




人は必ず恋をする


たとえば恋をすることは、、「偶有性から単独性への転倒」です。動物的な出会いから、人間的な出会いへ、すなわちたまたまあらわれた人を、自分にとって唯一な人と錯覚することが恋です。そしてこの転倒では、「運命」という超越性が要請されます。すなわち彼女が特別な人であるという承認のために「神さま」が必要とされるのです。

これは、ラカン「手紙は必ず届く」というテーゼに繋がります。たとえば、ラカンが瓶にいれた手紙を海に流した場合にも、「手紙は必ず届く」といいます。本来、手紙は宛先に届くとは限りません。それは偶有的なものです。しかしここでは手紙とは、「偶有性から単独性への転倒」されたものであり、大文字の他者=自分に内在する他者へ向けて書かれるということを表しています。だから手紙は必ず届くのです。ジジェクはこれを「象徴的ネットワーク内のある場所とその場所をしめる偶然的要素との間に起きる、一種の「短絡」である。」と言いました。*2

すなわち、ラカン「手紙は必ず届く」のテーゼは、たとえば、人は必ず、「偶有性から単独性へ転倒」させる、人は必ず運命を信じる、人は必ず恋をするなどなどと言いかえられると思います。




デリダの手紙は必ず届く」


これに対して、デリダは、このラカンのテーゼを批判し、「手紙は必ず届くとは限らない」と言いました。これはデリダ「散種から多犠牲への転倒」の展開です。すなわち、散種から多義性への転倒の過程で、「手紙」は失われる可能性があるということです。

しかしこれらは、結局先ほどのようにラカンの構図上にあるのではないでしょうか。「偶有性から単独性への転倒」において、ラカン「人は必ず「偶有性から単独性へ転倒」させるものである」といい、デリダは、「人は必ず「偶有性から単独性へ転倒」させるものであるから、単独性を解体しよう。」ということではないでしょうか。

河本はこれについて以下のように指摘しています。

ラカンデリダが、ほとんどすべてのものを共有しながら、末端でわずかに分岐していると感じられることには、十分に理由がある。ともにつねに同時に気づく意識を活用しながら、両者ではそのモードが異なるのである。・・・手紙が宛先につねに届くとラカンが言うとき、・・・個人が心的な機構として、個人固有に形成する像となった統一体(想像界)が、意味するもののネットワーク(象徴界)とつながるさいの否応のなさのことを指している。だから手紙は必ず送り先に届けられるのである。ところがデリダが、手紙は宛先に届かないことがありうるというさいには、手紙のもつ真理性が、真理性として成立しないことがつねにありうる点を問題にしている。というのも真理性がそれとして成立した途端に、まさに気づいてしまっている意識が、この真理性から逃げ去っているからである。
オートポイエーシスの拡張」 河本英夫

そしてボクが、デリダよりもラカンを指示するのは、「気づいてしまっている意識が、真理性から逃げ去る」ことなどできないからです。恋は錯覚であると気づこうが、恋することからは逃れられないからです。すなわちデリダの手紙は必ず届く」からです。人は「偶有性から単独性への転倒」から逃れられないのです。これは脱構築しようという強固な意志の次元を越えて、象徴界で作動します。

それは、彼女が世界で唯一の人あるという転倒は、その彼女を選んだ私も唯一の人であるということであり、「私」は、無数にいる人の中の一人(偶有性)ではなく、「私」「私」という特別な人(単独性)であるということであり、それが、人間は動物ではない。社会は群れではない。そして「私」は他のだれでもない「私」であるという、人の根元的な欲望に繋がっているいるからではないでしょうか。




まなざしのネットワーク


これは「まなざしの快楽」に繋がります。「まなざしの快楽」とは「偶有性から単独性の転倒」によって、この「私」は他のだれでもない「私」である」という、人の根元的な欲望を満たすことです。

そしてボクのいう「まなざし」とは、大文字の他者(超越的他者)のまなざしです。わたしたちは、超越的まなざしを内在させることによって、偶有性から単独性の転倒をおこしつづける、本来、偶然であるはずのものを、当然のもの=「正しさ」として捏造し、リアリティを捏造しつづけるのです。

これを、ラカン的にいえば、この世界の本当のリアル=現象界は人にはわからない。しかし私たちがみている世界=想像界がリアルと意識することがないほどリアルであるのは、私たちに「正しさ」という象徴界大文字の他者のまなざしが内在し、たえず「これはリアルだ」と囁きつづけているからである、ということであり、またそれが「言語を手に入れる」ということです。

そしてボクは、この「正しさ」を作るのが、「まなざしのネットワーク」という象徴界に帰属する自己組織的なシステムであり、他者とのコミュニケーション=他者の欲望の交換の中で自立的に作られる象徴的なコミュニティです。しかしそれは、どこかに実在するのではなく、人々がそのようなコミュニティがあるだろうという(無)意識により維持されるます。「みんな」「正しい」と言うから、「正しい」ということであり、この「みんな」はどこかにいるみんなではなく、主体がそれを正しいとする「みんな」がいるだろうということによって、現れる「みんな」=超越的なコミュニティなのです。

このために、神もシステムということになります。神は、「みんな」が神がいるとおもっているだろうことにより「正しさ」となる。それは正しいと意識されないぐらいに正しく、リアルになるのです。恋、宗教、イデオロギーなど、様々な「正しさ」も、このような象徴的なコミュニティによって作られています。




恋はいつかは冷める


ボストモダン以降、大きな物語は凋落したといわれました。これはラカン的には象徴界という秩序が、保たれなくなってきたということであり、大文字の他者の失墜などとも言いわれます。すなわち「正しい」ということを決定していた象徴界が、誰において「正しい」ということを提示できなくなったということです。

「まなざしのネットワーク」はそもそもにおいて新陳代謝システムなのであり、システム内の動きが活発化することによって、かつてのような長期的に「正しさ」を安定することができなくなっていると言うことができます。それは、ポストモダン以降、社会が情報化し、コミュニケーションが今まで以上に活発化したためと考えることができます。これは、象徴界の活性化」であり、さらにはデリダ的に意志として脱構築するのではなく、システムに内在するルーマン脱構築*3が活性化しているということです。

このような現象は特にネット上、さらに2ちゃんねるで顕著でしょう。ボクが2ちゃんねる脱構築装置」といったのはそのためです。ここでは荒らしだろうが、クズレスだろうが、レスされ、活字化され、公開されることによって、システムの活性化をすすめるという意味で自己組織的に、脱構築として作動しているのです。さらには、2ちゃんねるだけでなく、ブログ、マスメディア、「大衆」を組み込んで、象徴的なまなざしのネットワークシステムとして作動しているといえます。

これを恋愛の例にに当てはめると、「人は必ず恋をするが、いつかは冷める」ということになります。そして現代にでは、運命の恋を長期的に維持することが困難になっていると言えます。

ここでさらにデリダ脱構築の意味が明らかになるでしょう。デリダ脱構築しなくとも、「まなざしのネットワーク」というシステムに内在する脱構築構造によって、「正しさ」はいつかは脱構築されます。だからデリダの戦略は、このようなシステム内の「正しさ」が固定され、システムの機能不全箇所をみつけ、そこにドライブをかけようということになります。そしてその必要性は、「偶有性から単独性への転倒」のメカニズムが、スターリニズムファシズムなどを含めた様々な人類の悲劇のメカニズムでもあるからです。




世界の中心で愛を叫ぶ快楽


現代において、このような象徴界の活性化=脱構築化は、われわれの「正しさ」=リアルであるという確信を揺らしています。なにが正しく、リアルであるかは、流動的になり、特にたとえば人々が政治、制度という社会レベルの「大きな象徴的なコミュニティ」として古い「正しさ」を維持することが難しくなっています。これは知識人による「情報社会の倫理と設計」という大きなテーマに、リアリティを持てない理由です。

それよりもむしろ人々は、「小さなまなざしのネットワーク」によって、情報化され、活性化されるもの、ファション、パソコン、ネット、アニメ、音楽、タレントへ向かいます。ここではいままさに「正しさ」が作られ、「偶有性から単独性への転倒」が行われている、「私」「私」であるという、人の根元的な欲望を満せる分野であるということです。

「恋愛」は、かつてよりも「小さなまなざしのネットワーク」として、活発に行われているのではないでしょうか。それでも冬のソナタ「世界の中心で愛を叫ぶ」などの最近の純愛ブームが起こるのは、「恋愛」は活発に行われる故に、「運命の恋」という「正しさ」脱構築され、強度をもち、長期的に維持し続けるのが難しくなっているということでしょう。それ故になおさら、脱構築的に「愛は幻想なんだよ」などと言わずに、世界の中心で、運命の人にむけて、愛を叫ぶという究極的な「偶有性から単独性の転倒」によって、「私は他の誰でもない唯一の私である」と究極的に承認されるという快楽を欲望するのです。




ラカン的物語とデリダ的物語


韓流なども含めこれらの物語は「手紙が必ず届く」ラカン的物語であり、現代の日本のドラマは「手紙が必ず届くとは限らない」デリダ的物語である故に、熱狂されないと言えるのかもしれません。


ボクですか・・・ボクとハニーはいつも世界の中心で愛を叫び合っています。世界の始まりから運命づけられた愛ですから・・・はい・・・

*1:存在論的、郵便的 −−ジャック・デリダについて」 東 浩紀

*2:「汝の症状を楽しめ」 スラヴォイ・ジジェク

*3:アウラな世界 その6 正義論2 デリダルーマンの正義論」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040526