続 女子高生のスカートはなぜ短いのか その1 死の欲動(タナトス)か、生の欲動(エロス)か 

pikarrr2004-12-15



1.おしゃれな服を着るとウキウキする


たとえば、新しく買った「おしゃれたな服」を始めて着て、外出するとき、ウキウキします。それは街にでると「みんな」におしゃれだなと見られるだろうということであり、実際に外出してみんなにみられたということではなく、その前にウキウキするのです。すでに「みんな」という他者のまなざしが内在化しているためです。

「みんな」は、街を歩いているみんなではなく、主体に内在する「みんな」であり、ボクはこれを「まなざしのネットワーク」(=象徴的コミュニティ)と呼びました。そして「まなざしのネットワーク」がおしゃれの基準(正しさ)を作ります。「まなざしのネットワーク」はコミュニケーション、経験によって、「正しさ」の基準を絶えず書き換える動的な新陳代謝システムです。

さらにここには、「みんな」と共有された価値観があります。今日の私の服がおしゃれなのは、外出着の「正しさ」が、「みんな」と共有されているという前提があります。だからその「正しさ」を越えている。今日の服はおしゃれで、「みんな」に見られると思うのです。

ボクは、この「正しさ」「静的なリアリティ」と呼びました。この正しさは、主体がそれが正しいだろうと意識することがないような「正しさ」であり、リアルであると意識しないようなリアルさです。われわれの見ている世界がリアルであるのは、この静的なリアリティを内在しているからです。すなわち構造化された無意識であり、ラカンがいうところの象徴界に対応するでしょう。

これはある時に破られることによってしか、そこに「正しさ」があったことが意識されません。たとえばなんからの事故にあい怪我をすることによって、日常の安全が当たり前のものではなく、様々な危険が身近にあると意識するなどです。

そして静的リアリティが破られるときに、「生きている実感」のような「動的なリアリティ」が現れます。だから、新しく買った「おしゃれな服」を始めて着て、外出するとき、ウキウキするのは、外出着の普通さ(=「正しさ」=静的なリアリティ)が小さく破られているといえます。「普通」よりはおしゃれであり、それ故に「みんな」との差異を生み、みんなに見られるだろうことによって、そこに動的なリアリティ=「生きている実感」が生まれているのです。




2.「欲望」の差異化運動


このような「静的なリアリティ」を破り、「動的なリアリティ」を与えるものを、ボクは「溢るる余剰」と呼んでいます。このような余剰は、多くにおいて、この日常という静的リアリティを大きく破るものではありません。「みんな」というコミュニティからはみ出さない程度の飛躍であり、それはあくまで、みんなに欲望される、みんなが良いね、と言われる程度のものです。

たとえば、男性はよく女性に「髪型を変えたのに気が付かない」と怒られるようなことがありますが、そのおしゃれは女性のファッションに疎い男性には気づきにくい程度の変化だからです。しかし女性の中では、「おしゃれ」という「まなざしのネットワーク」=象徴的なコミュニティに帰属し、コミュニティ内の普通を少し破り、わくわくしているのです。それは、小さな破れであっても、「まなざしのネットワーク」というコミュニティ内で、私と他者の差異を示すものです。それは「私」の一部なのです。それが、現前化する恋人に気づかれないのは、「私」の否定であるために、ショックなのです。

このような差異化はごく日常的なものです。行為を行う、注意を向ける、言葉を発するなどの意識的な行為において、絶えずそこに小さな「静的リアリティの破れ」からの小さな「余剰」が溢れ、「私」が獲得されます。そして象徴的コミュニティ内の静的なリアリティ=「正しさ」も変化していくのです。

ボクはこのような象徴的コミュニティないの差異化を「差異化運動」と呼びました。そして「私」を獲得する差異化運動は、終わることがありません。差異化運動によって「正しさ」自体が書き換えられていくために、さらにそれを破るというような循環システムとして作動しているからです。それはたとえば、世の中で流行に終わりがないのと同じようなものです。だからどこまでいこうが「これが私だ」という満足は得られないからです。

そしてボクは、このように「私」を獲得する運動を、ラカンがいうところの「欲望」であると考えています。そして余剰を強く回収する対象、(先の例では「おしゃれたな服」であったり、「髪型」)が、ラカンがいうところの対象aではないかと考えています。




3.生の欲動(エロス)と死の欲動タナトス


ラカン「欲望」は、欲求とは異なります。欲求は「快感原則」にしたがい、食欲、性欲など動物的であり、満たされると満足しますが、欲望は「快感原則の彼岸」にあり、人間的であり、満たされることがありません。対象aは、この満たされることがない欲望の向かう補完物です。そしてこの欲望はフロイト死の欲動を根元にしている、ということです。

後期フロイト「快感原則の彼岸」という次元を導入することによって・・・二歩前進し構図を完全に変える。・・・「快感原則」によって動かされる心的装置の調和的な回路を妨害する異物・闖入者は心的装置の外にあるのではなく、心的装置に内在しているのである。「外的現実」とは無関係に、こころの内在的機能そのものの中に、完全な満足に抵抗する何かがあるのだ。・・・この異物、すなわち「内的限界」に対するラカンの数学素はもちろん<対象a>である。

対象a>は「快感原則」の閉回路を中断し、その均衡のとれた運動を狂わせる。・・・たしかに<対象a>は快感の円が閉じるのを妨げ、縮小不能な不愉快を導入するが、心的装置はこの不愉快そのものの中に、つまり到達しえないもの、つねに失われているものの周りを永久に回り続けることに、倒錯的快感をおぼえる。いうまでもなくこの「苦痛の中の快感」に対してラカンが与えた名前は享楽であり、どうしても対象に到達できないこの循環運動、ーこの運動の真の目的は目標へといたる道程と合致するが、フロイトのいう(死の)欲動である。
「汝の症候を楽しめ」 スラヴォイ・ジジェク

死の欲動タナトス)とは、後期フロイト「快感原則の彼岸」から考察した本能論で表されたものであり、生の欲動(エロス)と対立するものです。生命には「つねにより多く生きようとする実体を集めてより大きい単位にまとめ上げて行こう」とする生の欲動(エロス)と、「生きているものを無機的状態に還元しよう」とする死の欲動タナトス)を内在している。そして死の欲動は、反復強迫、破壊衝動、攻撃性などとして現れます。




4.個体的「生の欲動」と集団的「生の欲動」


フロイト死の欲動は、人には根元的に、無にかえる本能があるということです。いわばエントロピーの増加に対応するでしょう。一般的にエントロピーの増加は環境要因です。世界はエントロピーが増大する(秩序が崩壊していく)世界です。宇宙論的な予測ではビックバンから始まったこの宇宙は、エントロピーが増大し続けており、最後にはエントロピーの極大、すなわち物質のない世界に至ります。簡単には一度コップからこぼれた水がコップに戻せないのは、この世界のエントロピーが増大しているからです。そしてそのような中で生命は、局所的にエントロピーが減少する(秩序が形成される)傾向にある特別な存在です。すなわち世界は死へ向かい、その局所で生命は生へ向かっているということです。この意味は、人の本能は、生の欲動(エロス)です。

フロイト死の欲動の可能性としてあるのが、生命の老化であり、寿命です。老化は「計画的細胞死(アポートシス)」*1という遺伝子の命令として行われていることがわかっています。しかしアポートシスがフロイトのいう死の欲動でしょうか。「快感原則の彼岸」にあり、「苦痛の中の快感」=享楽をもとめ、人の破壊衝動の原動力でしょうか。計画的細胞死(アポートシス)は、細胞にとっては死ですが、ある細部が死に、新たな細胞が生まれると言う意味では、人というシステムが生きていくための内的な新陳代謝です。そして人の寿命とは、人にとっては死ですが、社会というシステムが継続していくための新陳代謝です。

たとえばアリの個体はただ利己的に「個体維持」を指向しません。働きアリ、女王アリなど、生まれながらに個体の形態そのものが集団の一部として存在しています。ここでは個体は個体の快感原則だけでなく、集団の原則にも従います。そのために個体は、個体の快感原則とは反する自己犠牲を求められるます。

そしてこれも生の欲動(エロス)の一面であり、フロイトの生の欲動を「個体的生の欲動」という呼ぶなら、これは「集団的生の欲動」と呼べるのではないでしょうか。




5.「私」という集団との鎖(絆)


人への進化過程は、「集団的生の欲動」に対する「個体的生の欲動」が強まる傾向ではないかと考えています。原始的な生命は、集団と個体の境界が曖昧で、個体性よりも集団としての秩序維持が重視されます。それが、動物化(自律的に動けるようになる)」によって、環境および集団から離脱可能になり、また迅速な状況判断のために知能が発達します。また、無性生殖(細胞分裂)によって、個性のない個体が生まれ続けていたのが、有性生殖によって、多様な遺伝子が生まれ、個性へ繋がります。

そしてその先に、「この私」という実感という自意識が生まれました。さらに自然主義の誤謬を承知でつなげれば、この「個体的生の欲動」が強まる傾向は、人類史上でも見られます。近代以降の豊かさは、物質的に個体を自立させ、集団から分離した自己の自由を重視する民主主義を誕生させました。

このように、ボクたちは、「集団的生の欲動」に対する「個体的生の欲動」がもっとも強い生命となりました。これは「偶有性から単独性を目指す変化」ということができます。集団の中で、すぐに代替可能などれ(誰)でも良い位置から、集団の中で「この私」以外でしかない位置への変化です。

しかし「個体的生の欲動」「集団的生の欲動」という両義的な力学は、人においても働いています。「個体的生の欲動」は、たとえば個体としての秩序を維持するために、体温を調整するとか、(免疫システムを含めて)外敵に対抗するということであり、そこには他者が介在する必要がないとても利己的なものです。

しかし「私」=自意識は、まさにこの両義的な位置に芽生えるものであり、利己的なものではありえません。なぜなら「私」は、集団の中での価値としてしか、「私とは何ものか」を獲得できないからです。「私」とは、「個体的生の欲動」が強まるからこそ、「集団に帰属させるための鎖」として作動していると考えられます。現代、ボクたちが豊かになり、もっとも個体が尊重され、他者と関係することなく、生きていけるように感じていますが、「私」という鎖は、「私とはなにか?」という問うことによって、「集団へ回帰させる力」として働きます。この鎖は「絆」とも呼ばれます。

そしてこの「個体的生の欲動」「集団的生の欲動」の両義性であり、「私」という集団へ回帰させる力こそが、フロイト「快感原則の彼岸」であり、ラカンのいう欲望です。そしてフロイトのいう死の欲動として、反復強迫、破壊衝動、攻撃性などがあるとすれば、それはこのような両義的な位置にある「私」という「闘争の場」で起こるこのではないでしょうか。




6.象徴界という「闘争」の力学場


「私は闘争の場である」というのは、ラカンに繋がります。ラカンにおいて「私」とは象徴界における私」を意味します。象徴界は言語の世界であり、社会的な秩序の世界です。人は象徴界に参入すること、すなわち言語を手に入れることによって、「人間」=社会的な主体になります。

ラカン象徴界に参入することを去勢、主体の消滅、あるいは「ものの殺害」と呼びました。象徴界に参入すると言うことは、「根元的な主体」象徴界の言語(シニフィアン)に表象代理させることであり、根元的な主体が失われるのです。このために象徴界「私」はそのはじめから欠如した存在なのです。そして人はこの欠如を埋めようとしますが、この欠如は根元的なものであるために、終わりなく「欲望」しつずけることになります。

さらに象徴界=言語世界は、主体が参入する前からすでに他者によって差異の体系として構成された世界であり、言語意味(価値)は他の言語との関係性によってしか、意味(価値)を持ち得ません。すなわち主体の欠落を補う「欲望」は、他者の「欲望」「欲望」することによってしか、不可能なのです。

このように象徴界に働く欲動は、フロイトのいう死の欲動ではなく、集団的な秩序に従うという「集団的生の欲動」によって、「個体的生の欲動」が抑圧され、それを回復しようとする「闘争」の力学場であるといえるのではないでしょうか。

*1:偶発的な死と異なり、細胞の生死を決定する遺伝子によって、いつ死ぬべきか個体としての全体的統合性を考えた上で決められた細胞の死