続 エロビデオはなぜワンバターンなのか その2

pikarrr2005-01-18

「処女性」とはなにか


「商品としての女性」の消費構造からわかることは、「商品には、「処女性」フェティシズム(物神性)があり、それが欲望の反復(経験)によって、汚されていくことによって、「興奮」が生まれる構造を持つ」ということだ。そして商品のフェティイズム(物神性)は、その商品が超越的な他者によって、欲望されるだろうことによっている。そしてそれを所有することによって、超越論的他者に欲望され、まなざしを浴びるのである。

ここでいう超越的な他者とは、ラカンのいう大文字の他者である。そして「商品としての女性」の価値構造のような社会的な秩序は、象徴界である。そして象徴界は、たとえば「純情とヘアヌードのような言語差異によって構造化され、価値がうまれるのである。

しかしこれは、欲望の反復(経験)によって汚されていくもの、「処女性」とはなにか、という説明そのものではない。




「処女性」という予測不可能な唯一性


先に、「TV番組で、日本に住む外国人女性が日本人の男のセックスはみな同じパターンなのが不思議だといっていた」といったが、彼女がいうには、そのために日本人の男のセックスには創造性、あるいは意外性がないとうことである。彼女は、このような日本人のパターン化された性技巧に「退屈した」のである。まさにこれが、欲望の反復(経験)によって失われていくものではないだろうか。

日本人の男性の多くが、知らず知らずにアダルトビデオ的な性技巧のパターンに従わされている、とすれば、それは一つの「社会性」である。これは、ラカン「無意識は言語で構造化されている。」というテーゼにつながる。人は、知らず知らずのうちに、様々な社会的な秩序(象徴界)に拘束されているのである。

ボクたちは、アダルトビデオを見る前に、そのAV女優にアダルトビデオにでるような子じゃない、どのようなセックスをするんだろう、など様々な「予測不可能な可能性」をみる。たとえば、フェラチオにそれほど差があるだろうか。結局、誰でも同じようなものだとしてもある。そして1本目のビデオをみることによって、そのような様々な「予測不可能性への期待」は、見たものによって抑圧される。2本目、3本目とビデオを繰り返されることによって、彼女は、象徴化され、予測されるものになり、彼女に対する期待や可能性は減少する。さらに彼女自身も、経験(反復)によって、無意識のうちに、性行為が象徴化されることからは免れない。このためにさらに(彼女にとっての)予測不可能な過激な行為を欲望する。

ボクたちは、アダルトビデオであろうと、その彼女のエクスタシーが「本物」であることを求めるのは、それが象徴化されたもの、繰り返されたものではなく、予測不可能な、唯一なものであってほしいからである。何本もアダルトビデオを出演するように、経験を繰り返すとは、そのような象徴的な抑圧であり、予測可能なものとして、「処女性」という唯一性が減算することを意味する、のである。




「処女性」への欲望


このような「処女性」を欲望するのは、「商品としての女性」だけではなく、人に根元的なものだろう。最近では温泉の問題があった。白骨温泉の問題では、それが温泉であるか、どうかではなく、その温泉の白さが、天然であるが、着色であるかが、問題になった。ここでは物理的なことが問題なっていない。着色剤を入れたからっと言って、温泉そのものの物理的な特性はかわらない。しかし着色剤を入れることによって、何かが失われ、多くの人が失望したのである。

着色剤とは、科学的にいくらでも再現することができる(予測可能な)象徴化されたものである。それに対して、天然の温泉とは人に管理されない、予測不可能な可能性である。だから着色剤が混入されたとき、「処女性」が失われたのある。

プライドを見てしまうと、今までのプロレスが陳腐なものに見えてしまうのも、同じ理由である。プライドはガチであり、そこには予測不可能性があり、興奮するのである。たとえば、つきあったかわいい彼女が整形手術を受けていたと知ったとき、もしワカパイの巨乳が豊胸手術したものであったなら、なにかが失われるだろう。それが象徴化されない予測不可能性への可能性であり、「処女性」である。




処女性=カオス性


このような予測不可能性を「カオス」と呼ぶことができるだろう。「カオス」とは決定論に従わず、ほんのわずかなゆらぎが、予想もつかないほど大きく違った結果を生む可能性のある現象である。近代の科学の発達が目指したのは、人を含めたすべての現象を要素に還元し、秩序ある機械論として構築することであった。その試みは成功していない一要因が、この世界のカオス性である。

この世界のすべては、1回限りの唯一なものであるが、人はそれが反復されたものとして象徴的に認識する。それが社会的な秩序である。それでも象徴化されない余剰が溢れ続ける。ボクたちは、社会的な秩序の構造化と、「生」としての余剰を溢れさせるという闘争的な位置に立つのである。

このカオス的世界を、カントは「ものそのもの」ラカン現実界とよんだ。人は、現実界を認識できず、象徴化によって(言語化によって)象徴界として認識しているのである。

そしてラカンは、欲望は対象aへ向かうと言った。対象aとは、象徴界の不完全性、象徴化しきれない現実界からの剰余物である。それは、本来の主体、象徴化することによって欠落した主体の代替物であり、主体が再生することを求めて欲望するのである。それは永遠に欠落しつづけるのであるが。




「溢れる汚物」だけが「ガチ」です!


たとえば、「女子高生」の制服そのものは、まさに社会的な象徴化であり、「彼女そのもの」の可能性を抑圧する。さらに最近は、「コギャル的?」にミニスカートにしたり、独特なメイクすることによって、「商品としての女性」として象徴化されている。しかしそれでも、「女子高生」に欲望するのは、そのような象徴化されない予測不可能な余剰に欲望するのである。

たとえば、子供は「ロリータ」と名付けられることによって、その子供がもつ多様な可能性を「商品としての女性」として抑圧する。しかし子供はそのような象徴的な秩序による抑圧に収まることができない。「ロリータ」という「商品としての女性」の名から、たえず逸脱し、予測を裏切っていくだろう。

このような象徴化されない余剰は、ある意味で幼稚であり、泥臭く、生々しいまさに「生」の力であり、予測性不可能な「ガチ」である。そしてこのような余剰は、社会的秩序に従わないもの、あるいは社会的秩序そのものを破壊する力として、社会的に禁止されたもの(タブー)、醜悪なもの、下品なものとされる「溢れる汚物」である。

たとえば、ロックミュージックなどのポップスは多くにおいて象徴化されている。そのリズム、メロディ、構成、歌の長さは、ある程度のパターンがある。しかしそのような象徴化から溢れる汚物こそが、人々を欲望させるのである。それは歌手のシャウトであり、楽譜に乗らない楽器の微妙に崩れたリズム、強弱であったり、アドリブなダンスであったりする。この「生(なま)」に人々の欲望は向かうのである。




「カオスの辺縁」でエロビデオはワンパターン化する

生命が存在し、かつ進化してゆくためには、秩序(形態)の維持と新情報(新形態)の創発という相反する2条件がともに必要であるが、秩序相は形態の維持には好都合だが新情報の創造性には欠け、カオス相は情報の創造力に富むがともすれば秩序維持にはむかない、というディレンマが生じるのだ。そこで生命秩序にとっては、秩序維持と情報創発という2つの条件をともに満たす場として秩序相とカオス相との中間付近のきわどい領域が自己組織性全般のなかでもとりわけ重要な意味を持つ。この領域をカオス辺縁と呼ぶ。カウフマンによれば、このカオスの辺縁こそ進化能が最大となる領域なのである。

自己組織化とはなにか 吉田民人編著 ISBN:4623025608

現実界は、秩序なき混沌(カオス)であり、象徴界とは秩序化された同一反復の世界、変化を失った「死」の世界である。そして象徴界現実界の境目、「カオスの辺縁」とは、対象aに対応するだろう。

アダルトビデオに次々に投入されるAV女優の「溢れる汚物」「カオスの辺縁」で欲望され、余剰を象徴化することによって、「商品としての女性」の価値構造は、自己組織的に構造化されながら、変化する。エロビデオはワンパターンに保たれながら、変化しているのである。そして象徴界は、このような一つの自己組織的なシステムとして作動し続けるのである。



ボクですか・・・「カオスの辺縁」でエロビデオをみます・・・