続 エロビデオはなぜワンバターンなのか


1 続 エロビデオはなぜワンバターンなのか その1
2 続 エロビデオはなぜワンバターンなのか その2




1 続 エロビデオはなぜワンバターンなのか その1

AV女優の消費構造

オーラルセックスによるクラミジア咽頭感染が拡大

かつては特別な行為だったオーラルセックスが、ごく普通のパートナーが日常的に行う性行動になったようだ。その結果、クラミジア咽頭感染が増え、感染拡大の一因になっているという。・・・研究グループは、風俗産業従事者ではない性体験のある一般女性122人を対象にアンケートを実施した。その結果、性行為の際、オーラルセックスを「必ず行う」「50%以上の割合で行う」とした人が77%を占め、行わない(経験がない)は8%に過ぎなかった。しかも、「必ず行う」「50%以上」の回答は30歳以上では57%だったのに対し、20歳代では81%、20歳未満では90%と若いほど高く、近年では性体験の初期から当然の行為として受け入れられている様子がうかがえる。
http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/medi/325527

最近は性感染症が流行っているらしい。それは不特定多数との性行為が広まったことと、オーラルセックスが一般化ためだろう。おばあちゃんなどでキスをしたことがないと言う人が良くいるが、その昔は性行為にはキスさえなかったのだ。そしてフェラチオなどのオーラルセックスの普及は、アダルトビデオの普及と対応しているのではないだろうか。

TV番組で日本に住む外国人女性が日本人の男のセックスはみな同じパターンなのが不思議だといっていたが、このようなアダルトビデオ普及は、もっと深く人々の「性」に対する意識を、構造化しているのだろう。 たとえば、アダルトビデオにおける性行為は、このような性のタブー性として象徴的に構造化されているが、それが日本人のセックス方法を拘束しているということだ。

アダルトビデオの価値構造

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たとえば、AV女優は、始めにきれいに「梱包」され、まず「普通」のかわいい子、アダルトビデオなどに出演しないような子であるように演出される。そこから、初出演では、フェラ、挿入ぐらいの性行為が撮られる。「普通」の子が、性行為を行い、「普通」を破ることによって、興奮を生むのである。しかしこれを反復していては興奮はさめていく。このために次はオナニー、バイブ、3P、多人数というように、性行為は過激になり、このタブー性の構造を下っていく。そのたびに、「ここまでやるのか!」と彼女の「正しさ」の破られ、興奮が生み出されていくのである。そしてある段階まで来て、そのAV女優は、「やっぱりこういうことができる女だったんだな。」と消費され、消えていく。

そしてまた次の「普通」の子が、AV女優として興奮を生み出していくのであり、これが一つのシステムとして作動している。このシステムは、「商品としての女性」の消費構造であり、ここで消費される価値は、いわゆる「処女性」である。




ロリコンという「商品としての女性」の拡張


このようなアダルトビデオの構造は、「処女性」という価値による「商品としての女性」として、上部へ拡張することができるだろう。

「商品としての女性」の価値構造

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「商品としての女性」を構造化している「処女性」とは、神性さである。そしてこの神性さを汚すという欲望によって、興奮は生み出されるのである。たとえばいまは、清純であり、水着披露までのあややが、いきなり3Pで犯されるビデオに出演することは、そこに大きな「処女性」の消失、神性の差異=神性ポテンシャルが生まれ、驚くべき興奮を生み出すことがわかるだろう。そしてこのような差異は、「萌え」絵上で表現されているのである。一つの絵の中に、「純情と淫乱」というような神性ポテンシャルの差異を内在させ、興奮を生んでいるのである。

最近、奈良女児誘拐殺人事件もあり、ロリコンが問題になっているが、このような「商品としての女性」の構造の延長線上として、ロリコンという商品が生まれることは、容易に想像できるだろう。幼女は、「商品としての女性」の構造において、高い神性を持つところに位置づけられる。すなわち性的な欲望の増加は、より大きな性的興奮を生みだすために、タブーであるが故に、ロリコンという「商品としての女性」によって、構造を拡張し、興奮の差異を広げているのである。




消費されるフェティシズム(物神性)


このような「商品としての女性」の消費構造は、典型的な消費の構造ではないだろうか。商品には、「処女性」フェティシズム(物神性)があり、それが経験という欲望の反復によって、汚されていくことによって、「興奮」が生まれる構造を持つもである。

そしてこの「興奮」は、まなざしの快楽である。たとえば、かつてボクが言ったように「なぜ上から二冊目の本を買うのか?」*1は、誰もが開いていないということによって、二冊目の本に、神性ポテンシャルが生まれ、まなざしの快楽を生むのである。また宮崎アニメの魅力に、主人公たちの幼女的神性=ロリコン性の活用が良く指摘されいるが、それはロリコン性という神性ポテンシャルが、宮崎アニメという「物語(神話)」としての訴えかける力になっているであろう。

AV女優が、神性の消費によって、視聴者の強烈なまなざしを集めるときに、それはそのまま視聴者に内在したまなざしとなる。AV女優を見ているボクは見られているのであり、「偶有性から単独性への転倒」によって、まなざしの快楽を生むのである。このまなざしによって、世の中の誰でもある人から、「この私」へ転倒され、「この私!」という実感を生み出されるのである。これが、消費の意味である。

このために、商品のもつ神性ポテンシャルは、このような「偶有性から単独性への転倒」を起こすための力といえる。またハイデガーの現存在としての「気遣う」力だと言える。しかしこの神性ポテンシャルは、商品そのものが内在しているわけではなく、私が、この商品を他者が欲望するだろうことによって、捏造し、高められるものである。




欲望の減算反復と加算反復


消費は、、「この私!」という実感を獲得するために、欲望の反復によって神性ポテンシャルが摩耗させていく過程であり、「価値が減算する反復」である。この減算反復はまず、商品の購入によって、高い神性ポテンシャルを得る。それは、他者が欲望するだろうものであるが、反復によって汚れ、欲望されないだろうものとなるのであり、反復は少ない方がよい。

それに対して、「価値が加算する反復」もあるのではないだろうか。欲望の反復によって、神性ポテンシャルが増加していく過程である。最初は思い入れなかったものが、使い込むことによって、愛着がわき、思い入れができて、特別なものとなり、神性ポテンシャルが増加するのである。どこにでもあるものが、反復によって唯一のものになっていく。だれにでも、長く使っていて、捨てられないものがあるだろう。

ここにあるのは、より根元は「偶有性から単独性への転倒」であり、転倒のための原動力となる神性ポテンシャルを如何に生み出すのかという方法論の違いとして、減算反復と加算反復があると考えられる。




欲望される処女と欲望する童貞


減算反復としての消費は、まさに処女性である。その始めに強烈に高い価値=神性ポテンシャルがあり、その後経験回数、体験人数によって、価値減算していく。その意味で手に入れることそのものに意味があり、容易に、即効的に「偶有性から単独性への転倒」によって、まなざしの快楽を生むことができる。

これに対して、童貞は、加算反復型である。低い価値=神性ポテンシャルが、経験を繰り返すことによって、性的なテクニック、大人になっていく、まなざしの快楽によって自信もつ、というように考えられる。

この差は、処女は他者に欲望される対象であり、童貞は他者に欲望される対象ではないということである。そして処女を欲望するものは誰か?、それは男たちであり、そして童貞を欲望するものは女たちであるが、欲望するのは男たちであり、女たちは欲望しない、欲望される側であるというジェンダー的な構造があるだろう。すなわち、「商品として女性」は、このようなジェンダー構造が支えているのである。




アイドルの消費と萌え


しかし減算反復と加算反復は、対立するものではなく、どのような欲望の反復も、加算と減算の両義性をもつだろう。アダルト女優は、段階的により過激な性行為を見せていくことによって、神性ポテンシャルは減算していく。しかしこのような反復の中で、その女優に対する思い入れが生まれ、「女神」と呼ばれ、神性ポテンシャルが加算反復されうる。

さらにアイドルにより加算反復を見いだすことができる。アイドルは「商品としての女性」として消費(減算反復)されるが、アイドルヲタクは、欲望の反復(応援)によって、より萌えがまし、アイドルへの神性ポテンシャルを向上させている。より応援することが、まなざしの快楽を生むのである。

愛情などの人間関係は本来欲望の加算反復である。経験が深い絆となり、まなざしの快楽を生み欲望を満たすのである。しかし現代の資本主義社会では、その即時性から減算反復としての消費が重要視されている。すなわち金銭交換によって高い神性ポテンシャルの商品を手に入れ、即効的に欲望を満たすシステムである。このために人間関係さえも、減算反復的にそのときだけの欲望をみたすものとなっているともいえる。その故に、オタク(マニア)という傾向は、消費を創造性という加算反復へ転換する傾向であり、確かな欲望を求めているといえるかもしれない。




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「処女性」とはなにか


「商品としての女性」の消費構造からわかることは、「商品には、「処女性」フェティシズム(物神性)があり、それが欲望の反復(経験)によって、汚されていくことによって、「興奮」が生まれる構造を持つ」ということだ。そして商品のフェティイズム(物神性)は、その商品が超越的な他者によって、欲望されるだろうことによっている。そしてそれを所有することによって、超越論的他者に欲望され、まなざしを浴びるのである。

ここでいう超越的な他者とは、ラカンのいう大文字の他者である。そして「商品としての女性」の価値構造のような社会的な秩序は、象徴界である。そして象徴界は、たとえば「純情とヘアヌードのような言語差異によって構造化され、価値がうまれるのである。

しかしこれは、欲望の反復(経験)によって汚されていくもの、「処女性」とはなにか、という説明そのものではない。




「処女性」という予測不可能な唯一性


先に、「TV番組で、日本に住む外国人女性が日本人の男のセックスはみな同じパターンなのが不思議だといっていた」といったが、彼女がいうには、そのために日本人の男のセックスには創造性、あるいは意外性がないとうことである。彼女は、このような日本人のパターン化された性技巧に「退屈した」のである。まさにこれが、欲望の反復(経験)によって失われていくものではないだろうか。

日本人の男性の多くが、知らず知らずにアダルトビデオ的な性技巧のパターンに従わされている、とすれば、それは一つの「社会性」である。これは、ラカン「無意識は言語で構造化されている。」というテーゼにつながる。人は、知らず知らずのうちに、様々な社会的な秩序(象徴界)に拘束されているのである。

ボクたちは、アダルトビデオを見る前に、そのAV女優にアダルトビデオにでるような子じゃない、どのようなセックスをするんだろう、など様々な「予測不可能な可能性」をみる。たとえば、フェラチオにそれほど差があるだろうか。結局、誰でも同じようなものだとしてもある。そして1本目のビデオをみることによって、そのような様々な「予測不可能性への期待」は、見たものによって抑圧される。2本目、3本目とビデオを繰り返されることによって、彼女は、象徴化され、予測されるものになり、彼女に対する期待や可能性は減少する。さらに彼女自身も、経験(反復)によって、無意識のうちに、性行為が象徴化されることからは免れない。このためにさらに(彼女にとっての)予測不可能な過激な行為を欲望する。

ボクたちは、アダルトビデオであろうと、その彼女のエクスタシーが「本物」であることを求めるのは、それが象徴化されたもの、繰り返されたものではなく、予測不可能な、唯一なものであってほしいからである。何本もアダルトビデオを出演するように、経験を繰り返すとは、そのような象徴的な抑圧であり、予測可能なものとして、「処女性」という唯一性が減算することを意味する、のである。




「処女性」への欲望


このような「処女性」を欲望するのは、「商品としての女性」だけではなく、人に根元的なものだろう。最近では温泉の問題があった。白骨温泉の問題では、それが温泉であるか、どうかではなく、その温泉の白さが、天然であるが、着色であるかが、問題になった。ここでは物理的なことが問題なっていない。着色剤を入れたからっと言って、温泉そのものの物理的な特性はかわらない。しかし着色剤を入れることによって、何かが失われ、多くの人が失望したのである。

着色剤とは、科学的にいくらでも再現することができる(予測可能な)象徴化されたものである。それに対して、天然の温泉とは人に管理されない、予測不可能な可能性である。だから着色剤が混入されたとき、「処女性」が失われたのある。

プライドを見てしまうと、今までのプロレスが陳腐なものに見えてしまうのも、同じ理由である。プライドはガチであり、そこには予測不可能性があり、興奮するのである。たとえば、つきあったかわいい彼女が整形手術を受けていたと知ったとき、もしワカパイの巨乳が豊胸手術したものであったなら、なにかが失われるだろう。それが象徴化されない予測不可能性への可能性であり、「処女性」である。




処女性=カオス性


このような予測不可能性を「カオス」と呼ぶことができるだろう。「カオス」とは決定論に従わず、ほんのわずかなゆらぎが、予想もつかないほど大きく違った結果を生む可能性のある現象である。近代の科学の発達が目指したのは、人を含めたすべての現象を要素に還元し、秩序ある機械論として構築することであった。その試みは成功していない一要因が、この世界のカオス性である。

この世界のすべては、1回限りの唯一なものであるが、人はそれが反復されたものとして象徴的に認識する。それが社会的な秩序である。それでも象徴化されない余剰が溢れ続ける。ボクたちは、社会的な秩序の構造化と、「生」としての余剰を溢れさせるという闘争的な位置に立つのである。

このカオス的世界を、カントは「ものそのもの」ラカン現実界とよんだ。人は、現実界を認識できず、象徴化によって(言語化によって)象徴界として認識しているのである。

そしてラカンは、欲望は対象aへ向かうと言った。対象aとは、象徴界の不完全性、象徴化しきれない現実界からの剰余物である。それは、本来の主体、象徴化することによって欠落した主体の代替物であり、主体が再生することを求めて欲望するのである。それは永遠に欠落しつづけるのであるが。




「溢れる汚物」だけが「ガチ」です!


たとえば、「女子高生」の制服そのものは、まさに社会的な象徴化であり、「彼女そのもの」の可能性を抑圧する。さらに最近は、「コギャル的?」にミニスカートにしたり、独特なメイクすることによって、「商品としての女性」として象徴化されている。しかしそれでも、「女子高生」に欲望するのは、そのような象徴化されない予測不可能な余剰に欲望するのである。

たとえば、子供は「ロリータ」と名付けられることによって、その子供がもつ多様な可能性を「商品としての女性」として抑圧する。しかし子供はそのような象徴的な秩序による抑圧に収まることができない。「ロリータ」という「商品としての女性」の名から、たえず逸脱し、予測を裏切っていくだろう。

このような象徴化されない余剰は、ある意味で幼稚であり、泥臭く、生々しいまさに「生」の力であり、予測性不可能な「ガチ」である。そしてこのような余剰は、社会的秩序に従わないもの、あるいは社会的秩序そのものを破壊する力として、社会的に禁止されたもの(タブー)、醜悪なもの、下品なものとされる「溢れる汚物」である。

たとえば、ロックミュージックなどのポップスは多くにおいて象徴化されている。そのリズム、メロディ、構成、歌の長さは、ある程度のパターンがある。しかしそのような象徴化から溢れる汚物こそが、人々を欲望させるのである。それは歌手のシャウトであり、楽譜に乗らない楽器の微妙に崩れたリズム、強弱であったり、アドリブなダンスであったりする。この「生(なま)」に人々の欲望は向かうのである。




「カオスの辺縁」でエロビデオはワンパターン化する

生命が存在し、かつ進化してゆくためには、秩序(形態)の維持と新情報(新形態)の創発という相反する2条件がともに必要であるが、秩序相は形態の維持には好都合だが新情報の創造性には欠け、カオス相は情報の創造力に富むがともすれば秩序維持にはむかない、というディレンマが生じるのだ。そこで生命秩序にとっては、秩序維持と情報創発という2つの条件をともに満たす場として秩序相とカオス相との中間付近のきわどい領域が自己組織性全般のなかでもとりわけ重要な意味を持つ。この領域をカオス辺縁と呼ぶ。カウフマンによれば、このカオスの辺縁こそ進化能が最大となる領域なのである。

自己組織化とはなにか 吉田民人編著 ISBN:4623025608

現実界は、秩序なき混沌(カオス)であり、象徴界とは秩序化された同一反復の世界、変化を失った「死」の世界である。そして象徴界現実界の境目、「カオスの辺縁」とは、対象aに対応するだろう。

アダルトビデオに次々に投入されるAV女優の「溢れる汚物」「カオスの辺縁」で欲望され、余剰を象徴化することによって、「商品としての女性」の価値構造は、自己組織的に構造化されながら、変化する。エロビデオはワンパターンに保たれながら、変化しているのである。そして象徴界は、このような一つの自己組織的なシステムとして作動し続けるのである。



ボクですか・・・「カオスの辺縁」でエロビデオをみます・・・

*1:なぜ上から二冊目の本を買うのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041002#p1