続 なぜ人は「なんのために生きているのか」と問うのか

pikarrr2005-02-16

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遺灰ダイヤモンド

ダイヤモンドも作れる、驚きの遺灰加工法

シカゴのライフジェム・メモリアルズ社*2は、故人をダイヤモンドに変身させる計画を先月発表し、かなり話題になった。ビジネス・コンセプトはシンプルなものだと、ライフジェム社は述べる。人間もダイヤモンドも炭素でできている。それなら、人間からダイヤモンドを生成しない手はない。・・・ライフジェム社によれば「平均的な人体には、50〜100個のダイヤモンドを生成できる炭素が含まれて」いるという。そして、自分自身や親族、あるいはペットを宝石に変身させようと考える人々から、資料請求が「何百件も」来ているということだ。

http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20020927201.html

この「遺灰ダイヤモンド」の日本第一号についてテレビのドキュメントをやっていた。父親の虐待から亡くなった息子の遺灰から、母親が作ったということである。ここにある強烈な「転倒」は、亡き人の魂が地上最強の堅さという力をもって、永遠に輝き続ける、ということである。

この「転倒」は、ボクがいうところの「単独性から偶有性への転倒」である。「単なる」ダイアモンドが、愛する人の死、すなわち愛する人そのものへと転倒されるのである。そして、「遺灰ダイヤモンド」は、息子への母親からの強烈なまなざしであり、それは母親が息子の母親であり続けるための、まなざしの快楽であり、償いであり、救済である。

そしてボクたちは、この遺灰ダイヤモンドに、ある種の不気味さを感じる。それは、死という超越性とダイアモンドという超越性の安易な結びつきであり、「死」が、すなわち「私」が容易に物象化されることの恐怖、ダイアモンドに閉じこめられた魂は、永遠にそこから解放されない。 「永遠の死」、永遠に「死ねない」という不気味さである。それが、ボクたちがこの「物語」に見る「単なる」ダイアモンドからの「転倒」である。




偶有的な「私」と単独的な「私」


「単独性から偶有性への転倒」における偶有的な「私」とは、確率論的な「私」である。たとえばこの世界は驚くほど、確率論的にできているという話がある。ある街で年間に犬に噛まれて怪我をする件数はほぼ決まっているというようなことだ。これが意味するのは、「私」が、全体の中の統計の中に埋もれてしまうということである。たとえば身長が2mもある人はそうそういない。それは劣等感であるか、優越感であるか、その人の大きな特徴として存在する。しかし身長が2m以上の人の発生確率が100年間に100人というように、ほぼ決まっているとするとどうだろうか。それは「私」「私」でなくても、統計的には「私」は存在しただろう、ということである。

それは誰でもよかった存在が、奇跡的に、運命的に、「私」が存在するということへ転倒される。だから偶有的な「私」はいない。「私」は、転倒された単独的な存在である。すなわち、「私」とは、一つの転倒である。




「私」「死」の相補関係


そして「私」が無ければ、「死」もない。 たとえばリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子という考え方がある。人は遺伝子を運ぶ乗り物である、という考えである。重要なのは遺伝子が世代を越えて伝達されることであるということである。この考えは、社会的に大きな反響をよび、現にドーキンスは、倫理的に様々な非難にさらされたらしい。

遺伝子が主であれば、遺伝子が伝達されないことが終わり(死)であり、遺伝子が伝達されていれば、人の肉体が滅んでも、それは終わり(死)ではないのではないか?ということである。「死」とはなにか?肉体の滅亡?精神の停止?遺伝子の伝達不能?そして利己的な遺伝子「主」が遺伝子にあり、いまの「私」というものの価値が貶められるのでは、という誤解を呼び、倫理的な反響を呼んだと言うことである。

ここからわかることが、「死」にはまずもって死ぬ「対象」が明確化される必要がある、単独性が必要とされるということである。だから「私」「死ぬ」ためには、まず「私」である必要があり、「私」という対象が明確化されることによって「死」ぬことができる。

また逆説的に、「死」への自覚があるから、「私」という対象が明確化されるということもいえる。始まり、終わりがあるから、「私」という完結性が明確になる。ここに「私」「死」の相補関係がある。




脳死は妥当な死の判定法か」


だから「私」とはなにか?に答えがないように、「死」とはなにか?にも答えはない。それを決定しなければならない場合、混乱が起きる。

脳死は妥当? 現場の半数「わからない」

臓器提供に関連する全国の医療スタッフ約5000人を対象に、脳死は妥当な死の判定法か」と質問したところ、半数近くが「わからない」と答えたことが、厚生労働省の研究班の調査でわかった。欧州での同様の調査では8割が「妥当」と答えており、日本の医療現場では、脳死の受け入れや理解が低いことがわかる。脳死は妥当な死の判定法か」「はい」は日本で39%、欧州で82%。「わからない・無回答」がそれぞれ47%、11%、「いいえ」が15%、8%だった。「わからない・無回答」を職種別にみると、日本では医師が23%、看護師が50%を占めた。欧州では医師は5%にとどまっており、日本では死を判断する医師でも、脳死の受け止め方に開きが大きいことがわかる。医学的、社会的に人の死をどこで線引きするかは臓器提供のみならず、終末期医療のあり方にも通じる。医療現場の意識は、今後の臓器移植法尊厳死法案の議論の中で重要なポイントとなる。

http://www.asahi.com/health/medical/TKY200501090166.html

ここにあるのは、偶有性、単独性の混乱である。対象の不明確さ故の混乱である。脳死は、臓器提供において、必要だから、利便だから死の定義とされている。しかしそれはあくまで利便性においてである。だから脳死は、臓器提供において妥当な死の判定法か」と問うべきである。そうすればきっとほとんどの日本人が賛同するだろう。

主が私という心、あるいは身体であるか、あるいは遺伝子であるか、またあるいは人々の集まった社会であるか、という明確な対象がない。人の寿命とは社会が生き残るための新陳代謝である。この対象の不明確な中では、たとえば、医学的な死(脳死)さえも、いわば身体秩序の維持の停止、あるいは欠落でしかない。

そして人々が「死」というときには、それは単独的、象徴的なもの、すなわちそれはシニフィアンとしてのみ存在する。だから「死」そのものに、絶対的な言語意味(シニフィエ)はない。




現実界象徴界


「私」「偶有性から単独性への転倒」であるということは、偶有性と単独性の両義的な存在、現実界的で象徴界的な存在ということである。形而上学的には、これは動物/人間、野性/理性のような対立と、差別を生む。

しかし勘違いしてはいけないのは、象徴界的、単独的な「私」という対象が明確であり、「死」が明確である故に、たとえば「遺灰ダイヤモンド」のように象徴化され、神聖化されて、特別なものとされるのに対して、偶有的な「死」=秩序の欠落が生死の境をあやふやにする故に、生あるいは死そのものが希薄化する、ということではない。

偶有的な存在には「死」がなく、秩序維持しかないという意味で、そこにはより強烈な力への意志がある。それは、たとえば野生の世界の弱肉強食、非情さ、残酷さであり、ボクたちの心身の秩序を維持し続けようとする力である。この現実界的世界において、ライオンがシマウマを殺すことに「善、悪」は存在しないように、象徴界的な「掟」は意味を持たない。そこに、非情さ、残酷さを見ることは人間の象徴的な価値観でしかない。そこにはただただ秩序を維持しようとする「力」しか存在しない。だから動物はどのような状況においても、自殺しないし、人の生理的な機能は「自殺」しない。




自殺はすべて狂言である。


偶有性/単独性、あるいは現実界象徴界の両義性は対立ではない。そしてその両義的な位置があるのが対象aである。

「私はなんのために生きているのか」という問いは、そこに単独性への転倒がある。そしてまなざしの快楽の中にいる。だから、その言葉の意味は、言語行為的なコンスタティブな意味「私が生きている理由はなんだろ?」という疑問ではないし、さらにパフォーマティブな意味として、「こんな人生に意味は見いだせない。死のうか」ということでもない。

ラカンは、言葉は嘘であるといった。象徴界とは虚構の世界であり、我々は嘘しか言えない。仮に、「私はなんのために生きているのか」、あるいは「ギャグ」的に「私はなんのために生きるのか、どうせ死ぬのならば、いま死んでも一緒だろう」といって、手首を切って自殺を図ったとしても、それは狂言である。それはまなざしを集めるためのパフォーマンスである。

自殺はすべて狂言である。(現実界的な)リアルは、言語を越えたところにしかない。切られた手首から流れる血は、死ぬために流れるのではなく、「生きようとする」心臓の鼓動によって流れ続けるのである。そして手首から流れる血は「溢れる汚物」である。

そして、対象aとしての遺灰ダイヤモンドは、まなざしの快楽であり、まさに象徴的な「死」であり、イミテーションでしかない。そこにある「生」「死」も偽物である。しかしそれが対象aであるときに、そこには現実界への扉が開いている。それは言葉にされることはない母親の「叫び」であり、そしてボクたちが感じる遺灰ダイヤモンドへの不気味さも、そこに現実界への扉をのぞき込んでいる故である。その意味で遺灰ダイヤモンドという魂は、「単なる」ダイアモンドではなく、「リアル」なのだろう。


ボクですか・・・死んだら海にでも撒いてくれ派ですかね・・・

*1:なぜ人は「なんのために生きているのか」と問うのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040923#p1

*2:ライフジェムジャパン http://www.lifegem.co.jp/home.html